2023年3月4日土曜日

説教・礼拝メッセージ 20230305

聖書の言葉 ヨハネ3:1~17

1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 

3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


説教 「もし 生まれ変わることが できたなら…」 徳弘浩隆牧師

1. 生まれ変わるなら?…

だれにでも多かれ少なかれ、「生まれ変わり願望」というのはあるでしょう。「もし、生まれ変わることができたら…」という気持ちが一度も心にわいてきたことがない人は、いないのではないでしょうか?

それは、今の自分の状況を味わいながら、「あの時こうしておけば」という選択の失敗や、後悔というものを感じることがあるからでしょう。

生まれ変わったらどの動物になりたい?というちょっと変わったアンケートが朝日新聞で10年位前にあったそうです。自分の人生のやり直しではなくて、動物なら?という面白い切り口です。結果は、1位から順に…ネコ、イルカ、イヌ、ワシ、ツバメ、パンダ、ライオン、クジラ、トラ、シャチ、コアラ、チーター、ハクチョウ、ナマケモノ、ウサギ、フクロウ、ウマ、ゾウ、カメ、ペンギンという結果だったそうです。そしてその分析は、動物科学の専門家によると、「それは、『自由になりたい』『かわいがられたい』『君臨したい』の3パターンに分類できる」と言います。ナマケモノに少し心動きますが、あまりかわいくなくてかわいがられなさそうですから、私は断然ネコです。自分勝手に生きていて、しかしかわいがられるからです。

今日の聖書は、人は新しく生まれないと、神の国を見ることができない」という言葉が告げられています。ニコデモという人とイエス様の問答ですが、私たちの人生や、神様との関係、永遠の命を考えるうえでとても大切な話題です。一緒に見ていきましょう。

2,聖書

 ファリサイ派に属する議員でもあるニコデモという人が登場しますが、彼はこの後にも二度ほど登場する興味深い人です。

今回、夜に人目をはばかるようにしてイエス様に会いに来て今回の問答があったわけですが、その後も登場します。

二回目はヨハネ7章50節です。イエス様を逮捕しようとしたのに、手ぶらで帰った下役たちを祭司長達やファリサイ派の指導者の人々が「議員やファリサイ派の人々の中にあの男を信じたものがいるだろうか」と批判した時に、このニコデモがイエス様を擁護するような発言をしています。

そして、三回目はヨハネ19章39節です。イエス様が十字架にかけられた後、アリマタヤのヨセフと一緒に遺体を引き取り、「没薬とアロエを混ぜた物」を持って行ったとあります。

 このニコデモが、今日のイエス様との問答で、あるいはその後の出来事で、キリストとして信じ従ったという話もありますが、聖書ではなくて伝説でしかありません。しかし、今日の聖書の問答はとても意味深いものです。

 ニコデモはイエス様のなさるしるしを見て、神様からの方に違いないと確信していました。しかし、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエス様に言われ、混乱します。「年をとった者がもう一度母の胎に入って生まれることができるか?」と聞くのです。

 それへのイエス様の答えは、「水と霊とによって生まれる」ことでした。つまり、洗礼です。一度洪水で滅ぼされた罪びとのように、過去を捨て一度死に、生まれ変わること。その時、天から霊が降り「これは私の愛する子」と言われたイエス様にあずかり、共に生まれ変わることです。

 その奥義を理解できないニコデモにイエス様は続けます。天に昇って神様の知識を得ることは人間にはできない。天から降ってきたものが神の御心を知っていると。そして、降っただけではなく、やがて「上げられる」といわれ、モーセの時に気にあげられたヘビを見上げた者が病から救われたように、十字架という木にあげられることと、そしてやがて、昇天の時に天にあげられることをも、一気に説明されたのです。

3,振り返り 

 今日のイエス様のお話はどうでしょうか?盛沢山すぎて、理解するのにおいつかなくて、頭がいっぱいになるかもしれません。しかし、風に吹かれていろいろなものが動かされるように、私たちも神の霊に動かされて、自分の知識や力ではなく、神様の不思議なできごとにより、生かされ救われてゆくことも、イエス様は説明されています。

 私たちの生まれ変わり願望から見える、人々の願望は、三つあると分析されていました。「自由になりたい』『かわいがられたい』『君臨したい』の3パターン」でした。

 不自由に生きている自分が、自由に生きたい。そして人から愛されたい。それから、支配されるのではなく何も恐れずに生きたい、という私たちの現実の苦しさから見た、願望と言えるでしょう。

 自由に生き、愛され、支配されない生き方は、実は、聖書の中に答えがあるとも言えます。

 神様に従い、過去の自分と決別して新しい生き方を始めること。それが、洗礼です。特にこの四旬節の間、これを考えましょう。既に洗礼を受けた方は、そのことを思い出しもう一度心新たにすること。まだ洗礼を受けていない方には、無理やりではありませんが、心からそれをお勧めします。いっしょに、神様の教えられる道を歩んでいきましょう。

4,勧め

 そして、今日の聖書個所の最後も見落とさずに読まねばなりません。

3章16節には、「小福音書」ともよく言われる福音書のエキスともいわれる言葉が続くからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と。

この方に従って生きていくときに、生まれ変わることができます。安心と本当の心の平和があるのです。さぁ、一緒に歩んでいきましょう。 

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牧師コラム 生まれかわれるなら?

私は最近、いろんな体験や失敗もしたうえで、ようやくわかってきたことも多くあり、「若いころに、もっとこの分野の勉強に取り組んでいたらもっといろいろ分っていただろうに」と思う事があります。外国語や文化や世界の歴史、そして聖書についてですし、生き方そのものもです。今までの断片的な知識がようやくつながり、聖書の深さや、キリスト教や諸宗教の歴史、言語の相互の影響、そして今の私たちの文化や生活というものが少し見えてきたからです。もっと若いころに極めていたら、もっと有能な役に立つ人間になれていたのにと思う事があります。そうしたら遠回りや失敗も少なかったかもしれないと。でも、全てあとの祭り。人生はいつでも、新しい経験と学びで、楽しく生きていくことが大切だと、自分に言い聞かせています。

しかし、その「やり直し」はできます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあるからです。福音書を全部読まなくても(読んだ方がいいけど)、この一文に全てがまとめられているといわれています。聖書を一緒に学んで、新しい人生を、ご一緒にどうぞ!


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