2023年2月4日土曜日

説教メッセージ 20230205

聖書の言葉 マタイ5:13~20 

13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」


説教 「あなたがいてくれて、よかった」 徳弘浩隆牧師

1. 塩について考える…

色々な物価が高くなりました。皆さんもそれぞれ節約したり、工夫をされていると思います。電気やガスも値上げされ、我が家も驚き、気を付けています。小麦粉や多くの食品も。そして、ついに卵もですね。それにつられて、マヨネーズも数度の値上げです。

しかし、マヨネーズに対して我が家はあまり影響を受けません。使わないからです。今は色々なドレッシングがありますが、「サラダにはマヨネーズ」というのが私たちの世代の子供のころからの定番かもしれません。しかし、「サラダはマヨネーズで」という特定の国の習慣や、商業ベースで販売者側が押し付けたともいえる「常識」から解放されると楽になります。それは、サラダという言葉の意味を考えることから始まります。

このサラダの語源は「Sal」という、「塩」という言葉です。英語のSaltですね。古代ギリシャの時代からあった新鮮な生野菜に塩をかけて食べる習慣から来ているそうです。ポルトガル語でも、Saladaというと、「塩で味付けをした」という意味にも聞こえます。ちょっと難しく言うと、Saladaは、「塩で味付けをする」というラテン語のSalareという動詞の過去分詞という事になるからです。ちなみに、スペインやイタリアではパンにバターやマーガリンではなく、オリーブオイルを少しかけて塩を振りかけて食べることもあり、ホテルにもそんなセットも置いてあります。バターの高騰で悩むときに、昔からあるシンプルな食べ方もいいなと思います。

ということで、やや商業的に押し付けられたり、どこかの国の一時的な習慣をそのまま受け継いで「常識」と思っているのは、もともとの意味を見つめて、もっと自由になることができるのに、と思わされます。

聖書の読み方もそういう面があり、必要と思います。イエス様も、当時の「常識」や「慣習」にとらわれず、本当の神様の御心を説明されたといえるからです。

さて、今日は、イエス様も「塩」の話です。一緒に聖書から、イエス様のメッセージを聞いていきましょう。

2,聖書

 今日の聖書は、山上の説教、つまり、イエス様が語られた5章から7章までの長い説教のなかの先週の話のすぐ後のところです。「○○な人は幸いだ」と、集まった群衆を歓迎しながら、しかし、苦しみや悲しみさえ自分の力を過信せず神に出会うために「幸いだ」と驚かせたでしょう。集まった群衆の心にある常識や求めを、ひっくり返しさえして、神様に立ち返ることの大切さと幸いを説きました。

 そして、今日はその続きの話で、「塩」と「光」です。これも、間違って読まれがちとよく注意されるのは、「塩や光になれ」と宗教的・倫理的な目標としての生き方を命じたのではないという事です。

 「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とキリストが私たちに宣言してくださっているのです。努力して何かと獲得し、神に認められ、そうなるのではなくて、すでに、そうなのだといわれます。

 それは、前段からの続きで聞くなら、このように読んでもいいでしょう。つまり、「人間の力を過信して神など必要ないと傲慢に生きるのではなくて、苦しみ悲しみさえするときに、本当に神に頼る、神に帰ることをするでしょう。それこそ、幸いであり、本当の人間の意味があり価値がある生き方だ」と。そんなあなたたちは、「地の塩、世の光なのだよ」と。ユダヤ教のなかで悔い改めとは、ヘブライ語では「泣いて謝る」ことではなくて、神様に「帰る」ことでした。苦しみや悲しみも経験し、謙虚に神に帰る、そんな生き方をする人々は、「地の塩、世の光になれ」ではなく、「地の塩、世の光である」のです。

 これは、大きな安心です。「よかったねぇ」と先週に続いて合点がいくことになります。それが今日の最初の福音のポイントです。

3,振り返り 

その安心の言葉を聞いてどうでしょうか?やっと安心して生きれるようになった、と、肩の荷を下ろして良いところだと思います。しかしどうでしょう。そのままでよいのでしょうか?「やれやれよかった」と安心してじっとしていたり、昔と同じ放縦な生活をしていいかというとそうではありません。

 「塩に塩気がなくなると意味がない、捨てられる。光は隠しておいては役に立たない」とキリストは続けられるからです。塩は生き物の生存の必要な貴重なものですし、防腐剤にもなり重宝されました。そんな貴重なものなのだ、という事です。言葉の話に少し戻りますが、ローマ時代に給与はこの貴重な塩で払われ、Salというラテン語から、Salary・給与という言葉が生まれたといわれるほどです。そんな価値のあるものです。「地の塩である」と言われてピンとこなければ、「あなたがいてくれて、よかった!」と人から言われる、そんな存在だ、という風に聞くと心に響くと思いました。

せっかく神に戻って、塩や光のように意味がある存在になったのに、それが味がなくなったり隠れたままなら意味がないといわれました。どうしたらよいでしょうか?

 イエス様はこう続けます。ユダヤ教の律法や教えを捨てて自由に生きてよいという事ではなく、だれよりも確かにそれを守り生きるようにと続くのです。律法や預言者、つまりこれは旧約聖書の教え全体をさしていますが、「これを廃止するためではなくて、完成するために私は来た」と旧約聖書の教えを簡単に捨ててはいけないと説明されるのです。

 もっと完全に厳しく文字通りに律法を守れと言われるのか。生活はがんじがらめで、ますます厳しい信仰や修行のような生活をしなければならないのかと、心配にもなりますね。

そこで、これから読み進んでいくイエス様のお話や出来事の中から、その真意を少し先に考えることにしましょう。

神に立ち返るという事は、旧約聖書の一貫した教えのように、「神を愛し、人を愛して生きていくこと」です。これこそが、人間としての本当の安心であり、意味のある生き方なのだと、いうことです。そうするなら、いさかいや病や貧乏が時にあっても、赦しあい、愛し合い、助け合い、平和に生きていける、本当の神様の願った世界だという事でした。

そしてそれは、今後キリストの働きの中で論争が始まっていきますが、形式的に、歴史的に教えられた「常識」としてのユダヤ教ではなくて、そのそもそもの意味や神様の意図を明確に伝え、そこに戻ることを勧めるキリストの教えや働きが展開されていくことになるのです。そこが今日の福音のポイントの二つ目で、今後の楽しみでもあります。

4,勧め

月曜日に新しい病院へ行き、検査や治療が始まりました。少し調子が悪かったのですが、理由は、去年の健康診断の結果勧められた精密検査や治療を放っておいたからです。今回は調子が悪くなり、いよいよ、観念しました。病院を探し、診察を受けました。実は、こちらも医師を観察しました。その結果、「この人なら任せてみよう」と思いました。コピーして持参した健康診断の結果一式をお渡しし、「先生、これら一式をお任せします。先生のところでカバーできるものは全部、順番に検査や治療をしてください。」と言いました。

じたばたしたり、先送りしていないで、任せてみてよかった。と、肩の荷が下りた気がしました。この人に任せて検査をし、服薬や治療もし、生活も改善しよう、とおもいました。

教会も実は、そういうところでしょう。たくさんの重荷を背負っていないで、ここに来なさい。重荷を下ろしなさい、とキリストは招いているのに、私たちはじたばたしたり、先延ばしにして、状況を悪化させます。そんな人生は一度立ち止まて、洗礼を受けて、神様と一緒に生きる新しい人生を始めましょう。そのとき、「あなたがいてくれて、よかった」と、人からも神様からも言われる存在になるのです。

 

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牧師コラム アーメン! 


今日の聖書個所で、今日の福音のポイントではあまりクローズアップされないので触れませんでしたが、面白い言葉が出てきます。18節のイエス様の言葉です。「はっきり言っておく」です。昔の翻訳では「よくよくあなたがたに言っておく」という役もありました。この「はっきり」や「よくよく」という言葉は、左の画像にあるように、ギリシャ語聖書では「アーメン」なのです。右の画像はギリシャ語聖書のソフトからですが、上から、281はギリシャ語聖書の単語にナンバリングがしてる281番の単語、次は読み方ですが「アーメン」、次の行は18節という行頭の番号と、ギリシャ語で書いた「アーメン」、次の行は英語訳で「Truly」と本当にや真実にという意味、最後の行はヘブライ語の言葉から、という意味です。お祈りの最後で、「アーメン」と言いますね。「そうそう!、私もそう思う!」という相槌のような気持で、いうと心がこもるかもしれません。お祈りしましょう。(アーメン!)


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