2022年9月24日土曜日

説教メッセージ 20220925

メイルでも詐欺メールがたくさん来る時代、迷惑メールに自動振り分けされて、あまりしっかり見ていないと大切なメイルを見落としてしまう事もあります。またはかかってくる電話に騙されていないかと心配になり、どうしたら本物だという確証が持てるかと、考え込むことも先日ありました。どうしたら、私たちは本物を見分け、信じることができるのでしょうか?まして、本当に意味のある生き方となると、ことは重大です。聖書の言葉から学んでいきましょう。

聖書の言葉 ルカ16:19~31 

16: 19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 

24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


説教 「驚く奇蹟より大切なもの」徳弘浩隆牧師 

1,導入 どうしたら信じられるでしょうか

先日、運転中に見知らぬ番号からの電話がありました。後で残されたメッセージを確認すると、「支払いが確認できないので、お振込みください。詳しくはここにお電話をください」というパソコン音声の案内でした。しかし、最近使っていないカード会社だし、なかなか思い出せません。

メイルでも詐欺メイルがたくさん来る時代。一応私はこういう事には慣れているつもりで、いつも冷静に対処します。メイルなら文章を一部コピーしてネットで検索すると、同じメイルをもらった人の情報があり、偽物かどうか判定するのに役立ちます。今回は、発信者の電話番号を検索すると、実在の信販カードの会社と確認できました。案内された金額や振込先をメモして、冷静に数日考えようと、おいておきました。ところが数日後また電話がありました。パソコンのプログラムの電話なので、「あのー、いつのどれでしょうか?」と聞くこともできません。やむなく財布や引き出しの奥をもう一度探してみて、ようやく使っていないカードを発見しました。ネット上で履歴を見ようと登録し閲覧すると、確かに同じ金額の請求があり、引き落としができていないのを確認しました。それで、やっと安心して、振り込みを済ませました。つくづく思う事は、今は、便利だけれどむつかしい時代でもあるという事です。私たちは、何をどう見分けて、何を信じていいのか、迷う事ばかりです。すぐに信じても騙されるかもしれません。逆に疑い続けていても、支払いに応じずブラックリストに載るかもしれません。

今日の聖書のイエス様のたとえ話は、どうしたら大切なことを信じることがという事を、考えさせてくれます。


2,聖書

たとえ話の登場人物は、ぜいたく暮らしをしていた金持ちと、貧乏で病気もちで「不幸な」ラザロです。しかし、二人の死んだ後は運命が逆転しているように見えます。ラザロは天使に導かれて宴席のアブラハムのそばにいますが、金持ちは陰府で炎の中で苦しんでいます。アブラハムといえばユダヤ人の信仰の祖であり、彼の子孫であることを宗教的に皆誇りに思っていますから、そのそばで宴会に招かれているのは最上の幸せでしょう。

苦しむ金持ちは大声で、アブラハムに頼みました。炎の中で苦しんでいるからラザロにその指先の水で自分の舌を冷やさせてください、と。しかし拒否されました。そこで、自分の運命はもうあきらめたのでしょう、せめて自分の兄弟が自分のような苦しみに合わないために、ラザロを蘇らせて遣わしてくれたら悔い改めるでしょう、と。しかしそれも拒否されてしまいます。なんと冷たいと思うかもしれません。

しかし、その理由はこうでした。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」 「モーセと予言者」とは何を意味しているのでしょうか?それは、ユダヤ人にとっての聖書そのものの事なのです。キリスト教からすれば旧約聖書ですが、彼らには神から頂いた大切な言葉すべてでした。モーセは神が人に与えた救いと守りの約束である律法を意味し、預言書はたくさんの預言者によってその時々に合わせて語られた神の警告や約束などの言葉でした。それを大切にし、よく読んで、そのように生きていない人は、どんな大きな奇跡が起こっても、何も信じないだろう、と信仰の祖であるアブラハムが語っているのです。


3,振り返り

 私たちは、何を信じているでしょうか。どう見分けているでしょうか。大きな奇跡や、有名な説教者や神学者が、センセーショナルに語ってくれたら、初めて理解し悔い改めるでしょうか? または、自分の祈りが聞かれ、奇跡が起こり、ご利益があるなら、信じるでしょうか?

 そんなことを期待してもだめだ、と、今日のたとえは言います。教えられ、信じ、悔い改め、正しい生き方をする方法や指針は、もう既に与えられているからです。旧約聖書の告げる神の言葉は、「神を愛しそれに従い、人を愛すること」、それに尽きるともいえます。そう生きれば、幸せに平和に生きることができるのです。しかし、この金持ちのラザロに対する生き方は、そうではなかったのです。想像を膨らませると、この金持ちはラザロに一杯の水を持って行ってあげたことがあったでしょうか?自分は炎で苦しんでいるから、指先の水滴でもラザロに運んでほしいと願うのは運命の皮肉です。キリストは、小さくされている人に一杯の水を差しだすのは私にしたことなのだ、と言われた言葉も思い出します。

 ヨハネ福音書の死から生き返ったラザロとは違い、今日の話はたとえ話ですが、この奇蹟も思い出します。しかし、その奇蹟そのものが大切ではありません。「人を愛し敵さえ愛せ」と言われたキリストはそのようにしたために十字架で死なれたのです。そしてやがて蘇られたキリストご自身の歩みも思い出すべきでしょう。


4,勧め

 私の最初の出来事に話を戻しますと、かかってきた電話に、「ちょっとすみません。どのカードの話でしょうか?」と直接聞くことができればすぐに解決ですが、そうはいきませんでした。「直接話ができない案内電話だけだはけしからん!」と怒っても仕方ありません。詐欺の電話かもしれないから何を信じたらいいのかわからないと、不安がっても、無視を続てもいけません。よく調べて確認する方法は、実は既に手元にあったのです。仕方なくもう一度、財布や引き出しの奥を探したら確認できたように、神様との関係も同じだと、反省させられました。

今までの人生で、既にたくさんの恵みを経験し、神様からの約束やメッセージは聞き、手元にあるのに何もせず、大きな奇跡やご利益だけを求める人間はなんと身勝手なのでしょうか。そんなどうしようもない不完全で自己中心な人間のために、いのちを差し出して、律法と預言を実現し、罪の自覚の悔い改めと、新しい生き方へと招かれたのがキリストです。

キリストに学び、従っていきましょう。驚く奇蹟よりも大切なことがそこにはあるのです。そしてそれを通して変わる人生こそ、奇跡なのです。神様の祝福の中を、一緒に生きていきましょう。


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