聖書の言葉 ルカ14:25~33 (新137)
14: 25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
説教「キリストの十字架、私の十字架?」徳弘浩隆牧師
1.サグラダファミリア教会?
今日の聖書の話は、すいずん厳しい言葉ですね。そして、少々関連がわかりにくいと私はいつも思っていました。以下の事柄が続けて言われているからです。
I)親や家族や自分さえ憎まないと弟子ではない。十字架を背負ってきなさい。II)塔をたてようとするなら費用を計算してから。III)戦争をするときは兵力を比較して計算してからで、ダメだとわかれば和睦するだろう。IV)自分の持ち物を一切捨てなければ弟子ではない。
それぞれは有名な話で、それぞれ大切な教えと思えますが、この4つがどんな関係があるのかと不思議に思っていました。福音書を書いたルカが順番を間違えたか無理やりいろんな話をまとめたのかなと、ちょっと不謹慎なことさえ考えたころがあります。そして、塔を建てるときの話は、教会建築や改修工事をするときに、お祈りすることはもちろんですが十分な予算と資金計画が大切だと考えさせられ、思い出す例としてはスペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会の建築が100年を過ぎても完成していないことです。
皆さんはいかがでしたか?どんなふうに読んでいけばよいのでしょうか?
2.聖書
その謎を解くカギは、最初の言葉「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」という事でしょう。A)大勢の群衆がついてきたのはなぜか?B)イエス様が振り向いて言われたと言ときにイエス様はどこを向いて歩いていたのか?を考えていけば、謎が解けていきます。
今年何度も学んでいるように、ルカによる福音書は3つのパートにイエス様のご生涯を整理して記録し伝えました。1)聖誕から最初の働きと弟子の信仰告白、2)それを受けて時が来たとエルサレムへの旅を始めその途上での出来事、3)エルサレムでの最後の一連の出来事です。
今日のところは9章途中から始まった2)の旅の途上です。19章から3)になりますから、その旅も後半といってもいいかもしれません。
A)の群衆がついてきた理由は、イエス様の評判が広がり、エルサレムに向かって旅をしているのでいよいよ何かが起こると期待した人々が思い思いの期待を寄せてついてきていたと考えられます。B)の答えは、イエス様はエルサレムに向かっていたという事です。先頭を切って歩いていたかどうかは別ですが、先頭の集団で身近な弟子たちとともに率先して歩き、その後を大勢の群衆がついてきていたのかもしれません。
そこで言われたのは冒頭のI)の厳しいお話です。それはこの有名なイエス様についていけば、いいことがあるかもしれないと、群衆は期待もしていたからです。ローマに支配されるユダの国を再興してくれると政治的に期待した人もいました。事実弟子の一人は熱心党出身のシモン。信仰熱心なグループではなくて政治活動グループの呼び名でした。病気を治してもらったりのご利益を期待した人も大勢いたでしょう。弟子たちの中にも、イエス様が王様に君臨されたら誰がその右と左に座れるだろうと、「我こそは」と願い、議論していた競争心もありました。
それらの誤った期待や、自分こそという思い上がりなどすべてを一掃するイエス様の言葉だったのです。親家族や自分自身すら憎み捨てなければというのです。
そしてII)の塔の建築とIII)の戦争に対するそれぞれの計算についてかたられます。それは、「ちゃんと準備をして、きちんと計算して準備すれば大丈夫だよ」という意味ではないようです。
「自分の力や財力や信仰や行いで神様に選ばれ、救ってもらい、良いものをもらえると思ったら大間違いだ」と聞こえてきます。大きな塔を建てようと思い計算したら到底自分には無理だと気付くのです。そしてその次の話でさらによくわかるように、戦争をしようとしても十分に計算して比較してみたら到底勝てないと観念したら、降参して和睦を願い出るのです。それは、私たちの姿です。神様に対する姿です。
赦され救われるには、自分の努力や善い行いや、目に見えない信仰や、献金や奉仕のすべてを足しても、到底足りないと、気付いてていないのが、愚かな傲慢な人間の姿でした。自分には資格があると思い、先を競ってイエス様についていけばよいことがあると思っていても、到底そんな資格がないと思わされるべきなのです。
IV)の自分の持ち物を一切捨てるという事は、財産を人に施し、人を愛することと思われがちですが、ここではむしろ、自分の力や信仰を過信しないで、すべて打ち捨てて、キリストに従っていく姿を願っておられるのです。
3.振り返り
私たちはどうでしょうか?「まだいける」と思っているときは、まだダメみたいです、「もうだめだ」と思うときに、神様の力と恵みが見えてきます。いわば、神様に対しての無条件降伏。それが、今日の戦争のたとえでしょう。そして、塔とたてるといえば、旧約聖書のバベルの塔を思い出しますが、天にまで届く塔を建てて名を上げようとしたのですが、その試みはもろくも崩されました。
わたしたちも、少し物事がうまくいくと、神様のおかげもありうまくったと思いますが、いつしか自分にはこんな才能と力があるからと、思いあがることがあります。皆さんはありませんか? 正直に言うと、実は私はよくあります。一応神様を持ち出し感謝はしていますが、いつしか傲慢な自分がおおきくなり、失敗したり、うまくいかない状況に出くわして初めて、「ああ、やっぱり自分は何をしてもだめだ」と思い知らされます。そこで、神を捨てるのではなくて、神様にもう一度謙虚にお任せすることになります。おそらく、生涯そんなことの繰り返しで、私たちは少しずつ罪から解放され、産みかえられ、少しは「ましな人間」にされていくのかもしれません。
4.勧め
先日、罪について、原罪について聖書研究会で話し合う事になりました。どうもわかりにくいという事でディスカッションしました。欲望がすべていけないのか?欲望がなければ、生きていけないし、進歩も発展もない、という議論です。しかし、欲望のせいで、人は苦しみ、人を苦しめ殺しさえしてもしているという意見もありました。ゆっくり時間をかけて整理して学ばねばならないことでしょうが、議論な中で一つの結論への出口を皆で発見しました。
欲望そのものは良くも悪くもないけれど、その動機がカギではないかと。動機が自己中心で、「他者を犠牲にしてでも」という事になると、それは罪で、そんな心を持ち合わせていることが原罪という事で考えると、スッキリする面があると皆で納得しました。善悪を見分けるのは、神に聞き従うこと。それはつまり聖書の一貫したメッセージの「神を愛し人を愛する」ということを心の中心に据えていたら、罪を犯さずに互いに愛し合い共存できる心と社会が始まるでしょう。それをさらに実現するために、「敵すら愛するように」と説き、そのように生き、死んでいかれた方の十字架を見上げるときに、新しい自分が始まります。
「なんと自分は自己中心で罪深い心を持っているのか」と自分の代わりに死なれた方の十字架を見上げる時に思い知らされます。そのとき神様に無条件降伏するのです。こんな自分の小さな努力では、いや大きな努力をしていると思っていてもその中心に自分がい続けるならば、一切は無意味だったと、気づき、神様に降伏して従っていくこと。それが今日のイエス様のお話しだったでしょう。
自分を捨てて、自分の持ち物というプライドや傲慢な心を捨てて、あの方に従いましょう。十字架の上から見つめ、呼び招いておられます。そして私にもそれぞれの使命という十字架があります。それを担い、人に出会い奉仕すること。そこから、救いと平和が始まるのですね。
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いつまでたっても完成しない塔
今日の聖書の個所を読むと思いだすのがいつもこの教会です。スペインにあるサグラダ・ファミリア教会。ネット上の説明では「カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタルーニャの建築家アントニ・ガウディの未完作品である」とあるように、1882年着工ですがまだ完成していません。スペイン好きの私も友人の案内も含め2度訪ね工事現場も見学しました。
この教会の正式名称の日本語は、「聖家族贖罪教会」といい、Sagradaは英語で言えばSacredで、カトリック教会でいう聖家族はイエス様、マリア、ヨセフという事になります。それら聖家族を記念した教会で、聖誕と受難と栄光という3つのファサード(教会正面の壁などの意)をもち、すでにほぼ完成している聖誕のファサードにある奇妙な4つの塔など9本が有名です。 しかし、全部で18の塔が予定されているというのでまだまだです。
どうしてこれほど延びているのでしょうか。資金計画がずさんだったからでしょうか? 実はこの教会は大きなパトロンや政治勢力で建てるのではなく、贖罪教会という事で、「信者の喜捨」で建てるという計画だったから資金難で時間がかかっているそうです。拝観料収入も入れることにして、観光ブームもあり資金は増大し、ガウディ没後100年の2026年完成を目指しましたが、新型コロナ感染でロックダウンもありまた延期だそうです。でも考えてみれば、人々が罪を悔い改めてする献金に頼っていれば、すぐにできれば逆に私たちの罪深さを痛感することにもなり、複雑ですね。
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