2022年9月10日土曜日

説教メッセージ20220911

聖書の言葉

出エジプト32: 7~14 (旧147) より

32: 7主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、 8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」 9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。 10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

 11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 

ルカ15: 1~10 (新138) より

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

 3そこで、イエスは次のたとえを話された。 4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」


説教「神をなだめるモーセ」 徳弘浩隆牧師

1.101匹わんちゃんと100匹の羊…

今日の聖書を読んで思い出したのは、「101匹わんちゃん」の映画でした。有名なディズニーのTVシリーズで放送は1961年、なんと私が生まれた年でした。

映画を見たことがないのですが、ネタバレにならないようなネット上の映画紹介を見てみました。白い毛で黒い丸い模様がきれいなダルメシアンという種類の犬の毛皮でコートを作ろうとした人がいて次々に捕らえられるダルメシアン。一匹の犬がとらえられたので、仲間の犬が救出に行くと、そこにはすでに99匹の犬が捕らえられていたというのです。彼らの活躍で無事に脱出できるのが全部で101匹、というのがこの数字の意味とのこと。そして実は、99匹集めていた人は、あと一匹捕まえればみんな殺してしまってコートを作ることができたはず、という説明も載っていました。


2.聖書

今日のイエス様のお話は、有名な100匹の羊の話です。一緒に聞いていきましょう。

今日のルカの15章の二つのたとえ話と、実は16章のその続きの話は、同じ設定で一つのテーマで教えておられます。失った硬貨を見つけた人の喜び、放蕩息子の話と、それぞれ有名な話です。

これが語られた状況を見なければ、その深いメッセージは受け取れません。どんな状況だったでしょうか?

1)イエス様のところに、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとして集まってきた。2)ファリサイ派や律法学者はそれを見て不平を言った。3)その訴えは「イエス様は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」ということでした。それに対する返事としてのたとえ話です。

ファリサイ派は、「分離する」という言葉からファリサイといわれたという言葉通りに、汚れたものから離れ、神様の言うとおりに正しく生きていた人たちでした。律法学者も、生き方はとにかく、神様の掟を十分知っていて教え、人生を指導するような先生たちでした。彼らの考えには、聖書の規定を大切に守ることに心を向け、評価されるべき点はあったでしょうが、それを破ってでも人を助けるとか、愛するという姿勢はもちろんなかったのです。だから、イエス様にそんな批判をしたのでした。

それに対して、イエス様は、掟や細かな規定を守ることよりも、多少それを踏み越えてでも、苦しみ迷う人を探し出し、一緒に行き、そして救い出すという姿勢があったといってもいいでしょう。

100匹の羊の中から1匹が迷い出たら、99匹を残してでも探しに行き、見つかればどれほど喜ぶだろうか、という訳です。掟も細かな規定もいいけれど、それを超えた神の愛があるという事、そして失っていたものを見出した時は大きな喜びがあるという事を教えました。それほどの大きな愛の方が神様だというのです。


3.振り返り

では、ファリサイはや律法学者が完全に間違っていたのでしょうか?私たちはどう生きるべきでしょうか?イエス様のように、私たちも「自分で正しいと思うこと」のためなら、掟や規則を自由に破っていいのでしょうか?そうではありません。では、なぜイエス様はそう見えることをされたのでしょうか?

神は「義(ぎ)」なる方です。「義(ただ)しい方」ともいえます。悪を憎み、罪を見逃されません。しかし、同時に、神は「愛の方」でもあります。その二つの間には、葛藤ともいえるものがあります。罪を赦せない正しさと、それを超えてでも赦して救い出したい愛、その葛藤を神は持っているのです。

それに対する人間は、罪にまみれた罪びとたちと、神の声に従う事だけに一生懸命だったファリサイ派と律法学者がいました。そこに「義の神と愛の神の葛藤を超えるために、この世に来られたのがキリストです。


4.勧め

そんな神様の胸の内を思い知る物語もありました。今日の旧約聖書の話です。とても興味深いものです。神様が、モーセに「なだめられている」からです。エジプトから命からがら救い出してあげたイスラエルの民は、モーセの留守中に早速神様を裏切り、偶像を拝み始めました。それを見て「私を止めるな。私は怒っている。彼らを滅ぼす!」と神様は怒ります。それに対して「どうしてご自分の民に向かっていかるのですか。あなたが救い出した民ではありませんか。約束を思い出してください」とモーセは懇願します。というよりも諭されているところが、正しさと愛の間で揺れる親心のようなものを感じ、親しみやすくさえ感じます。

さて、最後に101匹と100匹の話です。101匹のほうの映画のストーリーは、犬を盗み出し捕まえて、目標達成のために他者を犠牲にしていくという悪から、2匹の犬が力を合わせて救い出すお話しでした。

それに対して、神の怒りを思いとどまらせたのがモーセで、解決するために矛盾と葛藤の中自分のいのちを犠牲にして、人々を取り返したのがキリストでした。危険を顧みず1匹の羊を探しに出たのは、キリストご自身の姿です。

私はどんな生き方をしているでしょうか?一人も失いたくない神様の愛で、探し出されたものであることを感謝しながら生きていきたいと思います。そして、正しく生きるプライドよりも、なりふり構わず人のために生きれるようになりたいですね。 

 

牧師コラム

エリザベス女王と英国国教会、宗教改革について 

 世界の多くの人の目が故・エリザベス女王にその死を悼む気持ちで注がれています。この機会に、王室と英国国教会、宗教改革について少し考えてみましょう。

 専門家ではありませんから多少の誤りがあるかもしれませんが、神学校やいろんな書籍で学んできたことをもとに簡単にまとめてみます。宗教改革の教会である私たちルーテル教会や、英国国教会、ローマカ・トリック教会のことも知っておくと、自分たちの信仰的立場がより明確になるからです。

 さて、エリザベス女王は、英国(正式名称はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国)の女王でしたが、英国国教会の元首長でもありました。ちなみに結婚対手のフィリップは遠戚関係にあったギリシャ王子及びデンマーク王子の地位を形だけ持っていたのですが、結婚前にギリシャ正教会から英国国教会へ改宗し帰化しています。

 英国国教会は、1517年のルターの宗教改革に次いで、イギリス王ヘンリ8世がカトリック教会から宗教的に分離独立しローマ教皇ではなく自らを宗教的首長とした「宗教改革」で生まれた教会です。1534年に始まり、1559年にエリザベス1世の時に教会制度が確立しました。ヘンリ8世もルターと同じくカトリック教会から破門をされています。

英国国教会はアングリカンチャーチとも呼ばれ、同じ流れをくむ世界中の組織の共同体・アングリカンコミュニオンの一つです。アングリカン(Anglican)とはEnglishのラテン語読みと関連がある言葉です。アングリカン・コミュニオンは、私たちルーテル教会で言うLWF(ルーテル世界連盟)と同じような世界での組織とも言えます。

日本では「日本聖公会」と呼ばれ、この「聖公会」はニケア信条や使徒信条の「聖なる公同の教会」から来ています。ちなみにこの「聖なる公同の教会」のオリジナルの言葉はラテン語では「sanctam(聖なる) Ecclesiam(教会) catholicam(普遍的な)」で、ルーテル教会でも英語の使徒信条では「holy catholic Church/ 聖なるカトリック教会」と訳されています。面白いですね。カトリックとは「普遍的な」という意味ですから、教派としてカトリック教会のことをいうときには、「ローマカ・カトリック教会」と言う方が厳密です。

 さて、この英国国教会はプロテスタント諸教会から見れば、ローマ・カトリック教会の伝統やしきたりを多く残していますからカトリックのようにさえ見えますし、英国国教会自身もカトリックとプロテスタントの中間的な位置づけで、中道、または橋渡しの教会とも公言されています。

 英国の国王や女王は、英国の宗教改革の成り行きから、英国国教会の元首長ともなり、今では象徴的なものに制限されていますが重要な位置にあります。現実的な宗教的なトップはカンタベリー大司教であり、この大司教がカトリックで言えば教皇に比類される立場ともいます。また、立憲君主制ですから政治的にもその権限は制限されていますが、英国のみならず、旧英国連邦諸国にも影響力があります。王政と宗教のトップがそれぞれ象徴的で得るとはいえ王室であるというのは、良くも悪くも?興味深いところであると感じます。

 故人の魂の平安と世界の教会メンバーの平安、そして世界平和を祈りましょう。


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