聖書の言葉 ルカ13:10~17 (新134)
13: 10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。 14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」 15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
説教「休む権利と、休む義務」徳弘浩隆牧師
1.イスラエルで驚いた「安息日エレベーター」…
この写真はもう22年前の写真になりますが、イスラエルを初めて訪ねた時の「私にとっての衝撃の写真」の中の一つです。ホテルのエレベーターなのですが、左の二つのエレベーターの脇には何やら表示が書かれています。幸い英語でも書かれてあるので見てみるとなんと、「Shabbat Elevator」の表示です。好奇心旺盛な私はすぐに現地の旅行ガイドさんに聞きますと、「これは厳格なユダヤ教徒が安息日を守るべしとの律法を破らずに乗ることができるエレベーターなのです」と言う事でした。逆に言うと、これを利用しなければ、安息日に律法を破ることになります。どうしてでしょうか?
それは、安息日に労働をしてはならないという規定がありますが、詳しく言うと「火を起こしてはいけない」という規定があります。ですから、安息日の夕食は、日が暮れる前にロウソクに火をつけておかなければなりません。ややこしい話ですが、ユダヤ教では日が暮れると日が変わるというカレンダーですから、金曜日の夕刻に日が暮れると土曜日になり、つまり、安息日になるという事になります。ですから、私たちの曜日感覚で言う金曜日の夜の食事は、日が暮れる前にロウソクに明かりをともして食卓の準備をしていなければなりません。
さて、エレベーターに話を戻しますと、電気スイッチを押すときに、火花が散ることがあるので、このスパークが「火を起こした」つまり「労働をした」という事になってしまうから、避けたほうが良いという事になるのだそうです。
このエレベーターはこういう悩みを解決するために考案され、一定数のユダヤ教当局の承認を得て製造設置されているそうです。どのように動くかというと、各フロアでドアが開いて、一定の時間でブザーが鳴ってドアが閉まり、各階停車で上昇し、下降するという動きを繰り返します。ホテルでの朝食の時など、土曜日の朝食では、厳格なユダヤ教の人たちはこれに乗って、時間をかけて食堂のフロアに到達するという光景を見ました。
我々からすると笑い話のようにも見えますが、彼らにとってはとても大切な神様との約束です。あるいは、律法を守らないという事は、私たち日本で育った人たちが食事中に箸で何かを受け渡しすると縁起が悪いと感じる、それにも似た、避けたい出来事というくらいの人もいるかもしれません。
Shabbat Elevatorについては、まだ日本語はありませんが、英語ではインターネット上でWikipediaという公共百科事典に掲載されているので、調べてみてみると興味深いでしょう。ちなみに、ホテルの客室にはShabbat Clockというのがベッドサイドにあって、安息日に朝、照明をつけたり消したりしなくていいように、照明やTVやエアコンなどをタイマー予約できるようにもなっていました。聖書だけを一生懸命読んでいても分からない、今の世の中のユダヤ教徒の人たちの生き方や工夫があるものですね。
2.聖書
さて、今日の聖書は、その安息日の出来事です。これほど厳格に「仕事をしてはいけない」と定められている安息日に、ある女性の病気を治してあげたイエス様への批判と、それに対するお答えです。イエス様だったら、細かなことは気にせずに律法を破っても良いというのでしょうか? その真意を一緒に見ていきましょう。
イエス様は安息日に会堂で教えておられました。私たちに置き換えて言えば、教会で説教をしていたとも取れることで、ユダヤ教のなかで、一定の尊敬を集め地方の指導者の一人として認められてもいたことがうかがえます。
そこに一人の女性がいました。「十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」とルカは説明しています。
その女性の願いや訴えを聞いてという事ではなく、イエス様が一方的に呼び寄せられ、すぐさま手をおき、癒しをされました。すると会堂長が腹を立てみんなに言ったのです。「安息日はいけない」と。イエス様の癒しの働きを否定したりケチをつけたりはしませんでした。ただ、「働くべき日は6日あるので、その間に来て治してもらえばいいのに」とこの女性を批判する形をとりました。それに対してイエス様は厳しく反論します。安息日でも大切な家畜には水を飲ませるだろう、と。反対者は恥じ入り、群衆は喜びました。
3.振り返り
今日学ぶことは何でしょうか?より大切なことがあれば、規則やこの世の決まりなど破ってもいいという事でしょうか?私も目の調子が悪くて病院の受診を進められましたが、先週はまだできませんでした。唯一時間が取れた日は、「あいにく今日は夜の診察はしていないんですよ」と断れました。「そこを何とか」とお願いしても、「何を言ってるんだ、こっちは深刻なんだ」と怒ってみても仕方ありません。より大事なことがあれば規則をぶち破ってもいいという教えではありません。
今日のイエス様の出来事は、今日の祈りの言葉を思い出してみると見えてくることがあります。共に祈った祈りを思い出しましょう。「大きな災わいに囲まれると、自分の力らでまっすぐ立つことのできない脆(もろ)い私たちを、あなたはご存知です。」と祈りました。
婦人は腰が曲がってまっすぐに歩けないでいました。それは、神の祝福を受けたはずのユダヤ人の姿でもあったのです。祝福を受けたアブラハムの子孫でした。また、モーセとともにエジプトを脱出してきた救われた民の人でしたが、自由にその祝福と救いを生きていませんでした。苦しみの中で、良かれと思って神様から頂いた救いの約束であるはずの律法を、文字通り守ることに終始し、がんじがらめだったのです。それを解放し自由にすることがキリストのなさったことだったのです
4.勧め
今日のイザヤ書は「安息日に自分のしたいことをやめ、歩き回るのをやめ、主の聖日を喜ぶなら、父祖ヤコブの嗣業を得ることができる」(大意)とあります。「無理やり規則を守ることを大切にするのではなくて、神様を喜ぶなら、約束された祝福を得ることができるのに」と言っています。
牧師が月曜日に「今日はお休みをいただいていてすみません」というと、「先生、休みは権利じゃなくて、義務なんですよ。先生もきちんと休んでくださいね」といわれたことがあります。配慮なるありがたい言葉でした。休みは権利ではなくて義務。しかし、義務と思いすぎて「休まねばならず他に何もしてはならぬ」と思いだすなら、それはまた誤りでもあるでしょう。
十戒や旧約の律法、掟は、神様との厳格な取り決めというよりも、神様が人を愛し大切にする救いの約束であり、祝福だという事が大事なところです。実はそれを、今週のこどものDayCampでもう一度学ぼうと思っています。
わたしたちも、がんじがらめで生きていて背中や腰が曲がっていたら、キリストに解放してもらいましょう。この世の苦しみや軋轢から、または、思い込みの信仰という軋轢もあるかもしれません。本当の救いと自由をいただきましょう。
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「よい週末を」って、いつ?
TVを見ていると、ニュース番組などで金曜日に「それでは、よい週末を」といわれることがあります。おそらく「土曜日と日曜日」を指しているのでしょうが、牧師としては少ししっくりきません。「日曜日は週の初めの日」だからです。
天地創造で神様は6日間でそれを終えました。そして7日目にお休みになりました。「安息」されたのです。だから、私たちも7日目は「安息日」として守るよう規定されました。それは、土曜日です。日曜日ではありません。その証拠に、「安息日」はヘブライ語で「シャバト」、日本に最初にキリスト教を伝えた宣教師の国、スペイン語やポルトガル語では土曜日はSabado(サバド)といいます。安息日も聖書ではSabadoと書かれていて、彼らには同じ言葉なのです。
じゃ、どうして日曜日に礼拝するの?それは、キリストが週の初めの日に復活されたからです。金曜日に十字架にかけられ埋葬され、三日目の朝早く復活されました。主の復活の日を「主の日」と呼ぶようになり、キリスト教では、ユダヤ教の時代の安息日を土曜日ではなく日曜日に守るようになりました。「主の日」はスペイン語やポルトガル語ではDomingo、日曜日のことですが、彼らは今でもDomingo,つまり「主日」と呼びならわしてるのです。そう意識しているかどうかは別ですが。
興味深いことにポルトガル語では月曜日、火曜日・・は2日目、3日目(2a-feira, 3a-feira)ともとれる呼び方で呼びます。1日目、2日目ではありません。1日目は日曜日だからですね。また、植民地時代のポルトガルの影響でインドネシア語でも日曜日はMinggu,土曜日はSabtuというそうです。DomingoとSabadoの現地語化ですね。ちなみに中国語では月曜日が第一日目で星期一と呼び、二,三と続きます。文化と宗教、言葉の成り立ちや考え方、それぞれのつながりや影響は面白いですね。
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