2022年8月10日水曜日

説教メッセージ20220814

聖書の言葉 ルカ12:49~56 

49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」


説教「その火が既に燃えていたなら」徳弘浩隆牧師

https://youtu.be/FMssATwzFwI


1.「平和主日」のすぐあとなのに…


暑い日が続きますが、原爆の日や終戦(敗戦)の日を過ごすなか、平和を祈っています。今年は「数十年前の戦争」を思い平和を願う祈りの言葉ではありません。連日実況中継のように見せられる戦禍で理不尽に失われる「いのち」を見せられ、身の回りでも燃料や穀物製品など諸物価も上がり、教会の改修工事をしていますがオイルショックならぬウッドショックともいわれる材木不足に戦争と経済制裁が拍車をかけ、工期や経費に影響も出ています。今年は、過去の戦争でも、遠い国のいざこざでもなく、自分のこととして戦争を考え平和を祈らされています。


さてそんな中、今日の聖書はちょっと困ったことになっています。なぜかというと、イエス・キリストがこう言われているからです。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」 火消しに躍起になっているのに、「既に燃えていたなら」なんて!いったい、今日の聖書はどう読んでいけばよいのでしょうか? 


2.聖書


まず、今日のイエス様の言葉は、どんな状況で話されたかを知らなければなりません。


先週も少し話しましたが、今私たちの教会では、ルカによる福音書と使徒言行録を続きものとして、全体を眺めようという聖書研究会をしています。細部の勉強というより、どんな構成で、どういう流れでキリストのご生涯と教会の誕生が起こったかという事をVideoなども使って駆け足で学んでいます。ずいぶんと頭が整理され、神様のメッセージと救いの計画が見えてきていると思います。


伝統的な読み方では、ルカはイエス様のお働きを三つのパートに分けて記しています。1)導入とイエス様の働き(ガリラヤ)、2)エルサレムへの旅、3)エルサレムでの最後の週、となります。1)と2)の転換点はペトロの信仰告白です。それで時が来たと、最後の使命のためにエルサレムへ旅を始めます。今日のお話は、ご自分の受難と、弟子たちに対する迫害の予告の後、この世の富よりも命を与える神を見上げ、多くのことで思い煩わずただ神の国を求めなさいと、諭される後に出てきます。


そこで、「平和ではなく分裂をもたらすために来たのだ」といわれたのです。単なる分裂や戦争をけしかけるものではなく、十字架へ向かい、弟子達に教え訓練している旅の途上のイエス様の心の内を見なければなりません。


「地上に火を投じるために来た」という言葉の「火」というのは、「神の言葉」と「神の霊」と理解して良いでしょう。実際今日の旧約の日課のエレミヤ書では「私の言葉は火に似ていないか」と神は語られます。罪や汚れを焼き尽くすものです。それと同時に、モーセに燃える火のように現れた神様ご自身や、キリストの十字架と復活の後に弟子たちに天から降りとどまったとされる炎のような神の霊・聖霊でもあると、思い出して理解すると良いのです。


預言者を通して神の言葉は何度も告げ伝えられてきたけれど、それが聞き守られていないこと、神の霊の働きが多くの人にあり神の国が実現していくという現実が到底ないことを、イエス様は嘆いておられます。


当時の権力者や宗教指導者と激しく対立もし、神の言葉を伝えていたイエス様は、この火のような神の言葉と神の霊の働きを地上に投じるために来たと宣言されたのです。それは、心地よいいい加減な言葉ではなく、神の義と裁きの言葉でもあるので、かつての預言者もそうだったように受け入れられず迫害もされ、受け入れてついてくる人とそうでない人の間には、対立も起こると、それは必然的なことだと、いう意味なのです。


3.振り返り


では、「聖書を読むから、教会に行くから、そうでない人との間に分裂と対立があっても仕方がないことで、むしろそのようにしよう」という事でしょうか?ちょうど今日本ではお盆の時期ですからいろいろな行事が家族や親戚でもあるでしょう。そこで、キリスト教式ではないとのことで、親戚や家族との対立をしようという事でしょうか?


実は、その対立の様子としてイエス様が言われる嫁と姑の話は、旧約聖書のミカ書7章からの引用です。「民の腐敗」と小見出しがついていますが、神の慈しみと正しさを持って生きるものがいなくなり、役人も裁判官も報酬を目当てとし、名士も私欲を持って語るようになったので、神の裁きの日が来るというのです。そこで大混乱が起きるので隣人や親しい者も信じてはならないといわれます。「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」と続きます。その言葉を引用したイエス様は、その続きの言葉を思い起こさせるのです。つまり、「しかし、わたしは主を仰ぎ わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。」という言葉です。


対立を正当化し助長しているのではなくて、神に聞き従わないこの世は、何もかも腐敗しているから、家族でさえ混乱や対立もあるが、「私は主を仰ぎ、わが救いの神を待つ」とつなげて考えると、腑に落ちると思います。


4.勧め


さてここで、神の声に聴き従うとは、どういうことかと思わされます。いちいち声は聞こえないし、何をどう選んだらいいか、聖書はたくさんのことが書かれているけどどこのどの言葉に従えばよいかと、漠然として悩みませんか?


今聖書の流れを駆け足で学んでいるといいましたが、そこで見えてきた旧約聖書からの一貫した流れでの神様の「ことば」があります。歴史や人々の生き方や神様への応答の仕方に応じて、それぞれの時代でいろいろなことを言われましたが、一貫していることに気づかされます。


それは、「誤ったものを心の支えや判断基準にせず、本当の神様を大切にすること」、そして「人を愛し大切にすること」です。それを中心にして判断すると、おのずと私たちの生き方が見えてきます。時には、社会や家族でも、意見の違いを感じることもあるでしょう。今までの自分との、対立もあるでしょう。しかし、それは、本当の愛のある生き方をするうえで、みんながそれに目覚めるまでは、過渡的に起こる仕方ないこととして、信念とともに大きな愛を持って、生きていきたいですね。私たちの心と世界で平和が実現するよう、神様の導きをお祈りします。


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Q&A再掲・お盆にどうしたらいい? 

お盆の季節ですね。家族や親せきで集まったり、地域の行事もあるでしょう。クリスチャンとしてどうしたらいいかと、悩み迷う事も多いという質問もよく受けます。私が担当した機関紙「るうてる」のコラムのQ&Aを引用して再掲します。2007年9月号からです。


~信仰で譲らず、愛で譲る~


 町内会でのお葬式、困ったわね。信仰とご近所づきあい、私も悩んだことがあるわ。神社の寄付の回覧板が来るたびに神様を裏切っているような気がして…。 うちの母はね、クリスチャンだから仏式のお葬式は絶対に行かない、そんな人だったの。ずいぶん父と喧嘩してたわ。ご近所とも難しくって。 私はね、牧師先生に恐る恐る相談したら、「信仰で譲らず、愛で譲る」っていう言葉をもらったの。とっても納得できて、心が軽くなったわ。手を合わせても、亡くなった方を拝むんじゃなくて、「神さま、どうぞこの魂を天国にお迎えください」って心の中で祈るの。聞かれたら隠さないで、「私はクリスチャンだけど、亡くなった方の宗教や気持を尊重してますから」って説明もしてね。 そしたら、とっても喜んでもらえて、「キリスト教じゃこういう時どうするの?」って色々聞かれて、かえって仲良くなれたの。そういうのもいいんじゃないかしら。 あなたのこと、祈ってるわ。

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