2022年3月27日日曜日

週報・説教メッセージ 20220327

 入院中の母の老人施設への入所先が決まり、急遽帰省し手続きなどしました。弱った母は車いすから私を見つけて、「会えてうれしぃー」と手を握りながら喜んでくれました。ハグしながら再会を懐かしんでいると、「まるでアメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくださいました。日本ではあまりハグしたり、感情を豊かに出さないのかもしれません。聖書では、まだ見えないくらい遠くにいるのに、帰ってきた息子を見つけ駆け寄って抱き寄せる父親のたとえ話が出てきます。神様は、どんな方なのでしょう?一緒に考えてみましょう。礼拝でお待ちしています。





聖書の言葉 

ルカ15: 1~ 3,11b~32 (新138)より一部

15: 1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 3そこで、イエスは次のたとえを話された。

11b 「ある人に息子が二人いた。 12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。…


説教「まだ遠く離れていたのに」徳弘師

1. 「会えてうれしぃー」と手を握られて…

忙しい週でしたが、急遽福岡の実家に帰省させていただきました。教会にも、ご病気の方が幾人もおられるのに、牧師が自分の親のことで飛んで帰るのははなはだ気が引けて恐縮でしたが、今の私の家族では私以外に誰も判断や契約、そしてお世話ができる者がいないので、ご容赦ください。

昨年脳梗塞で倒れ手術をし一命をとりとめた母ですが、脳の視力や記憶の部分に障害が残り、リハビリをしていました。これ以上のリハビリの成果は期待できず、といっても自宅に帰ると転倒の危険もあり、老夫婦の生活は危険だとして、老人施設の空きを待っていましたが、急に空いたとの連絡があり、向かいました。

退院手続きをして、理学療法士、看護師、薬剤師からそれぞれ説明を聞き、母と久しぶりに会いました。「あー、浩隆さんが来てくれた。うれしぃー」と手を取って握りしめ、車いすに引き寄せられるのでそのままハグをして再会を喜んでいると、「アメリカドラマみたいですねぇ」と看護師さんたちも笑いながら喜んでくれました。「目もほとんど見えないのに、よくわかったねぇ」と父が言うと、父のほうを見上げて「この方はどなたですか?」と聞いている様子にみんな苦笑い。「ご主人の声が小さくてわかりにくかったけれど、息子さんの声ははっきり聞こえて、わかりやすかったのでしょうね」とのこと。移動先の老人ホームはなんと、大垣教会の施設と似た名前で「あゆみの里」。車いすごと電動リフトで車に載せてもらい、移動し、入所を済ませました。「家に帰りたい」と何度も話していた母が、意外とスムーズに入所してくれたのには、ワーカーさんもびっくりで、「再会でうれしかったから、説明をちゃんと受け入れてくれたんでしょうねぇ」、とのことでした。「家に帰っても危なくて大変だから、個室のホテルみたいな施設で世話をしてもらいながらしばらく過ごしてくださいよ」と説明していました。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書は、ちょうど、帰ってきた息子を、遠くから見つけて迎え入れ、喜ぶ父親のたとえ話です。

「放蕩息子」というタイトルも付けられた有名な話です。親から財産を早く分けてもらい、遠い国に行き無駄遣いして使い果たし、飢饉が来て食べるのにも困り、ユダヤ人が忌み嫌う豚の世話をしながら、そのエサででも飢えを満たしたいと思うほどに落ちぶれ、我に返って改心し、父のもとに帰ってもう一度やり直そうとしたのでした。子どもとしての権利を主張せず、雇人の一人でもよいからと、そんな気持ちでした。

それを、まだ遠く離れていたのに見つけ、喜び迎え入れ、走り寄って首を抱いて喜んだ父親でした。そして、肥えた子牛を屠って宴会をしようというのです。

ここに、神様から離れ、勝手気ままに生きてきて、何もかも失ってしまった人間が、改心して神様のもとに帰ってきたらどれほど神様が喜ばれるかという、神の愛が説明された「世界でもっとも偉大な短編」ともいわれるほど有名になったイエス様のたとえ話でした。本当にわかりやすく、人間の罪と改心、感動的な神様の愛とゆるしが描かれています。私たちも、四旬節に罪を見つめ、神様に立ち返りましょう。

3.振り返り

 しかし、この「短編」にだけ目を奪われてはいけません。なぜこのたとえ話をイエス様がされたのかも大切なところだからです。

 それは、明らかな罪びとが改心するように話したのではなくて、明らかな罪びととともにいるイエス様を批判した当時の宗教指導者たちへの話だったのです。その批判に対して、「神の愛はこれほど大きなものなのだよ。一見立派に生きている人よりも、戻ってくる罪びとが大切なのだよ」とイエス様を批判する人への改心を迫る話だったのです。

 これを聞く私たちは、どこにいるでしょうか?放蕩しているままの人? 放蕩したけれど改心した人?あるいは、罪びとと一緒にいるイエス様を批判する人?

4. 勧め

連日の戦争のニュースで心を痛めます。一方的に誰かを悪者にして、何とか解決しないのかと憤る気持ちもわいてきます。しかし、上からすべてを見ておられる神様の目はどうでしょう? 私たちは、加害者と思われる人を非難するだけでなく、人間の共通の罪を嘆き、彼らのことも祈ってあげ、とりなしてあげたいと思います。そして、解決の道を開き、苦しみの中にいる人に支援の手を届けたいと思わされています。敵地に連行されたり、戦火を逃れて他国にわたる人たちを見ます。そこに、誰よりも、「自分の家に帰りたい人たち」の嘆きも見るからです。ともに悔い改め、助け合いましょう。神様の愛の前に、一緒に立ち戻りましょう。まだ遠くにいるのに、ちゃんと見つける神様は、ずっと見ていてくれているからに違いありません。


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