2022年3月19日土曜日

週報と説教メッセージ 20220320

春のような陽気、そして雨。感染病と戦争のニュース。何もできない無力さを感じます。私と違って理系なのにヴァイオリンを習ったり文学青年だったけれど電機メイカーに勤める兄から「大事にしていたロシア文学の本を捨てようかと迷っています」とメイルが来ました。ロシア文学には人間の罪深さを描いたものも多いでしょう。文系なのにパソコンやITが好きな私は牧師になりネットで人の罪と神の愛による和解と平和実現を訴えています。皆心が揺れ、つらい日々ですが、できることをして、何かと決別して、何かを始めるときなのかもしれません。静かに、祈り、一週間を始めましょう。






聖書の言葉 

ルカ13: 1~ 9 (新134)

13: 1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」


説教「今年もこのままに…」徳弘師

1. 3年経つのに実らないといわれ…

実は、今日の聖書の福音書のたとえ話の中のセリフはびっくりする言葉から始まりました。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。」と言われているからです。ブラジルから帰国して3年、この教会に呼んでいただいていろいろなことをやってきたつもりですが、「3年経つけれど、いったい何ができただろうか」と自問自答しながら、引っ越しの準備をしました。そんな中、今日の聖書のたとえ話で3年経つけれど一つも実らないイチジクの木の話を聞いて、「いくら待っても結果が出ない。もうだめだ、切り倒してしまえ」と神様に叱られている気さえしました。

それは少しこじつけで、考えすぎかもしれませんが、私たちの人生にも、こういうときがあると思います。

一生懸命やっても自分は何をやってきたのかと自問自答するとき。何をやってもうまくいかず、失敗したときに、自分に嫌気がさすとき。突然の災難やトラブルに出くわす、そんな時に、何か悪いことをしたから神様から罰せられているのか、と神様との間で原因を探すことがあるかもしれません。

そんな出来事に対して、イエス様はどうとらえるべきか、そしてイエス様がどう解決してくださろうとしてくださったか、その答えを聞いていかねばなりません。聖書を一緒に学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の聖書では、何人かの人たちとの問答から始まっています。過ぎ越しの祭りで犠牲を捧げるのと同じ時期に、ピラトの命令でガリラヤ人が殺されたのだろうと考えられていますが、それについての問答です。そして続いて、エルサレムの神殿の地下を通る水道の出口に当たる池を守る砦の塔が倒れて犠牲者が出たという事件があったようですが、そのことについてのやり取りです。当時のユダヤを苦しめていたローマ帝国の提督から殺された人々、そして災害で塔の下敷きになって死んだ人たち、彼らがなぜそうなったかと人々は考えます。たいがい、私たちは、何か悪いことをしたから神に罰されたのではないかと、あれこれと、原因を探します。

しかし、今日のイエス様はきっぱりとそれを否定されたのです。「ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」と。ひどい目にあった人たちや、災難で急に命を落とした人たちが、なにか神様の前に悪いことをしていたから神の罰が当たったのだと思うときには、そんな目に合わなかった自分は正しい生き方をしているから救われたのだと、自分を肯定する気持ちがあるものかもしれません。彼らは悪いことしてきたから罰せられたのであって、そうなっていない自分は神様に認められていると、優越感を感じているのかもしれません。

そんな私たちにイエス様ははっきりと言われます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と。

イエス様は直接的な因果関係はないことを教えられました。そして、幸いに災いを逃れたからと言って、自分たちは災いに遭った人々よりも罪人ではないのだと自己満足に陥ってはなりません。

3.振り返り

神様の目から見たら等しく罪びと、五十歩百歩であり、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とイエス様に宣言されています。では今日の聖書から何を聞き取っていけばよいのでしょうか?人類はみな罪びとだから救いがないというのが結論なのでしょうか。

 今日は最後の礼拝ですが、こんなものを用意しました。先日大垣教会の灰の水曜日の礼拝で紹介しましたが、少し作業をしていただきながら、今日の神様からの勧めの言葉として心にとめていきましょう。

 人は罪を犯し、自分の心の中でも、家族や人との間でも、そして集団や国というレベルでも、葛藤や争いがあります。神様の目から見れば失敗作のようなもので、罪の報酬は死であると聖書は断言します。しかし、神様は愛の方であり、罪びとたちを救おうと、預言者を使わして語り掛けてこられました。

「もう切り倒してしまえ」というのが神様の裁きの厳しい言葉とするなら、「今年もこのままにしてください。もう少し待ってあげてください」というのが神様の愛の気持ち、イエス様のお気持ちかもしれません。そして、「切り倒すなら代わりに自分を切り倒してください」と、神様の前に立ちはだかって私たちをかばい、自ら代わりにと進み出た先に十字架があるのです。

4. 勧め

イエス様の十字架の死、これを通して、私たちは本当に悔い改めさせられ、産みかえられるという不思議な方法を神様は取られました。奇跡で自動的に罪びとが信仰者や善人に変えられるのではありません。

 自分の代わりに死んでくれた方の十字架を見上げるときに、今までの自分も切り捨てていく苦しい作業の中で、少しずつ、つくりかえられていく、それが教会生活や信仰生活です。この紙を折りたたんで、切り取った後に出てくる十字架を見上げて、生きていきましょう。復活祭までの四旬節の間、特に静かに悔い改め、恵みの中に生まれ変わりましょう。


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