2022年1月15日土曜日

週報・説教メッセージ20220116

礼拝は、YouTubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。 


聖書の言葉 

ヨハネ2: 1~11 (新165)

2:1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。 8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。 9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


説教「この人が言えばその通りに」 徳弘師

1. 水がお酒になったといえば…

今日の聖書の伝える物語は、イエス様の最初の奇跡とも言われるカナの婚礼での出来事です。

とても有名なお話で、その名にちなんだワインも売られています。それは、パレスチナ原産でエルサレムの西方、ラトゥルンの丘のトラピスト会のラトゥルン修道院で作られている「Cana Wedding Wine」といいます。日本でも買えます。聖書にあるカナはガリラヤですからもっと北の地方で、そこには聖書のカナの地だといわれる史跡やそこに建てられた教会もあり、このワインが作られている修道院の場所とは違います。もっとも、聖書にあるカナだろうといわれる場所は諸説あって、確定しているわけでもありません。しかし、一度このワインを飲んでみたいという気にもなるものです。ご利益にあずかるというような気持ではなくて、イエス様のことを思いながらですね。

そんなことを考えていると、「まてよ、似た話を日本でも聞いたことがあるなぁ」と思い浮かぶ話があります。それは、並べて考えてみると不謹慎かもしれませんが、岐阜県にある「養老の滝」です。こんな話ですね。

昔、貧しいきこりが、谷深い岩壁から流れ落ちる水を眺め、「あの水が酒であったらなあ』と老父の喜ぶ顔を思い浮かべたとき、岩から滑り落ちて気を失っていました。しばらくして、気がつくと、酒の香りがするので、あたりを見回すと、近くの岩の間から、山吹色の水が湧き出ており、なめてみると酒の味がしました。これを汲んで帰って、老父に飲ませたところ、大変喜び、すっかり若々しくなりました。

国や宗教を問わず、どこでもこの手のお話があるのか?とも思いますね。

そして修道院ではいろんなご当地の伝説を盛り込んだお菓子やワインなどは話題に事欠きません。日本で昔流行った白ワインのマドンナというドイツワインは、ドイツではLiebfrauenmilchとい呼ばれるものですがその意味は「聖母の乳」という意味。日本語でその名で売り出してもわかりにくいので聖母マリアを意味するマドンナという名前にしたのでしょうか。幼子イエスに授乳する聖画がありますが、ドイツのヴォルムスの聖母教会にちなんだ名前だそうです。ちなみにこのヴォルムスはルーテル教会にも大切な街で、1521年に帝国議会にルターが召喚され、自説を撤回するように迫られたけれど拒絶し、「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたといわれる場所です。そんなことに思いをはせながら、味わうのもいいかもしれません。

さて、今日も雑学はこのくらいにして、イエス様のこの奇跡は、これらのご当地の話と何が違うのでしょうか?私たちにどんなメッセージを語っているのでしょうか?聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

先週はイエス様が洗礼を受けられて、メシアとしての生涯を始められた転換点になる出来事でした。そして今日は、弟子たちの召命に続いて、イエス様の最初の奇跡が取り上げられています。

母マリアやイエス様と弟子たちは、婚礼に招かれたのですが、その大切な日のワインが足りなくなって困りました。マリアの相談を聞いたイエス様が言われる通りに、水がめに水を入れるとそれがぶどう酒にかわったというのです。そして人々は大変驚きました。

歴史の中での聖画ではよく、壷が描かれていますが最近の聖書訳では研究や時代考証をしていて「石の水がめ」と書かれています。そしてもっと新しい翻訳では水の単位は分かりやすく「80から120リットル」と書かれているものもあります。右の絵の良いところは、水がめにワインではなくて水を「ドバドバ」と入れている決定的瞬間とでもいうところでしょうか。今でいえば「食品偽装の瞬間」ともいえるかもしれません。

3.振り返り

さて、今日の聖書のお話は私たちに何を問いかけ、教えているのでしょうか?

養老の滝の話のように、親孝行をしようとして水がお酒にかわった美談と、そこからくる道徳的教えでしょうか?そうではありません。むしろイエス様は、マリアに冷たく返事をしたのです。「私の時はまだ来ていません」と。しかし、その後が大切です。マリアは召使たちに言いました。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と。それを聞き逃してはいけません。自分にはわからない事でも、あるいは場違いなことをお願いしてしまって退けられたように感じたかもしれないけれど、「この方の言うとおりにしてください」という信頼、信仰へとも成長発展していく姿があったのでしょう。それで、その通りになったのでした。頼まれた召使にしてもそうです。人に隠れてかもしれませんが、カメに水をドバドバと入れることは気が引ける非常識な事だったかもしれません。でも、それをやりました。すると、神のわざが起こったのです。

水がワインに変わったという事よりも、「この方の言うとおりにしなさい」というい信仰、そして迷いがあったかもしれないけれどその通りにした行動、それが事態を変えたのです。そこに最初の奇跡の意味があるでしょう。

その続きの学びはこうです。その味を見て宴会の世話係は驚きました。「普通最初良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころ劣ったものを出すのに、こんな良いぶどう酒を取っておかれたのか」と。しかしここでも、私たちはこの事実に驚いてはいけません。その次にこうあるからです。「イエスは最初のしるしをカナで行って、その栄光を現した。それで、弟子たちはイエスを信じた」と。これは、ヨハネの福音書の1章の最後から続いて読むと一段とその意味を味わうことができます。

イエスの誕生と洗礼が書かれ、そのあと、最初の弟子たちが選ばれイエス様に従いました。シモンは「メシアに会った」という兄弟の証言を聞いて付いて気ました。そして翌日ついてきたナタナエルは、どうして自分のことを知っているように言われるのか不思議に思ったのですが、イエス様に「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて驚き信じたのです。「何でもお見通しの方」と思ったのでしょう。しかしその三日後の今日の出来事では、「イエス様の言葉を何でもその通りにしたら、奇跡が起こった」という出来事を目の当たりにして、イエス様をより深い意味で弟子たちは信じたのです。弟子たちの出会いとついてきた理由、そして信仰が育てられてきていることを一緒に見ることができます。

4. 勧め 

 私たちはどうでしょうか?イエス様の言葉を毎週礼拝で学び聴きながら、成長しているでしょうか?お門違いのお願いをして退けられてしまっても、この方の言うことは何でもしようと、信じ続けているか。そして、その通りにやってみたら、状況が変わったということを、教会生活の中で体験してきたでしょうか?そんな体験を大切にしましょう。

聖書の知識が増して信仰が深まり成長しているのではなく、こういう体験を通しながら私たちは神様に作り替えられていきます。一緒に歩みましょう。神様の祝福がありますように。

2022年1月8日土曜日

説教・礼拝メッセージ 20220109

  1月9日は徳弘牧師は大垣教会で礼拝説教を担当し、岐阜教会では信徒の方がメッセージをしてくれる礼拝があります。礼拝中継はYoutubeとFaceBoolの両方です。どうぞ、おいでください。






聖書の言葉 

イザヤ43: 1~ 7 (旧1130)

43:1ヤコブよ、あなたを創造された主は イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。2水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない。

ルカ3:15~17,21~22 (新106)

3:15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


説教「恐れるな、共にいる」 徳弘師

1. たとえ火の中 水の中…

 今日の旧約聖書の言葉を呼んで暫く過ごし、今日の準備をしていましたが、思い出した言葉は「たとえ火の中水の中」という言葉です。

 「どんなに難しいことや試練があっても、私は頑張ります!」というようなことを言う時によく使われる日本語ですね。確かに、火の中や水の中では私たちは生きていけませんから、その決意と覚悟をよく表した言葉でしょう。

 しかしそのいわれを調べてみて、びっくりました。 これは、歴史が古く、平家物語(鎌倉時代に成立したとされる軍記物語)に出てくる言い回しだそうです。そして実はもっと古くに、万葉集(奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最古の和歌集)のい歌にもあるそうです。そして、その両方とも、ラブレターのような文章の言葉でもあるとのことで、驚きました。

平家物語では、平維盛(たいらのこれもり)という武将が都の妻に対する説得の手紙に書かれているそうで、「火の中水の底への一緒に沈み、死ぬまで一緒にと思っていたけれど、この戦は大変厳しくて…」というような下りです。

万葉集では、安倍郎女(あべのいらつめ)という女性が男性への思いを詠んだで、「我が背子は 物な思ひそ 事しあらば 火にも水にも 我がなけなくに(巻4・506)」とあり、意味は「あなた そんなに独りで心配しないで何かあったなら火にも水にも飛び込む私というものが一緒にいるじゃありませんか・・・」という具合です。心強い言葉ですね。

 これからは、この言葉を口にするときに、そんなに古くからいわれていた言葉なのかと、これらの歌を思い出し、感慨深く語るのも良いかもしれません。しかし、私たちにとってもっと大切な、思い出すべきことは、今日の旧約聖書、そして、新約聖書の出来事です。雑学はこのくらいにして、聖書を学んでいきましょう。

2.聖書を学びましょう

今日の福音書は、イエス様が洗礼を受けられた時の話です。クリスマスにその誕生をお祝いし、その後幾つかの出来事を一緒に読んできました。1月6日のエピファニー・顕現節に、東方の博士が星を頼りに訪ねてきてイエス様に贈り物をしたという話で、クリスマスシーズンは終わります。今でもスペインではクリスマスではなくて、この日に子どもたちがプレゼントをもらう習慣の方が強いそうです。

さて、それも終わり、イエス様が12歳の時のエピソードも学びましたが、いよいよイエス様がみんなの前に出て、メシア・キリストとしての活動を始められる分岐点、それが今日の出来事です。

メシア(救世主)を待ち望んでいた民衆は、ヨハネに期待しました。祭司の息子で生まれるときに父ザカリアが不信仰で口がきけなくなったけれど、その子が生まれたときに口が利けるようになったという出来事は有名だったでしょう。そして、その子は大きくなり荒野で人々に「悔い改めの洗礼を」授けていたからです。しかし、その洗礼は「悔い改めてメシアを迎える準備をしなさい」という意味のもので、彼はメシアではないといいます。人々は困惑しました。そんな洗礼を受ける人々の行列にいたのがイエス様でした。

そして、そのイエス様が洗礼を受けて祈っておられると、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」という出来事があったというのです。

今日も、イエス様の発言はありません。今日は、どんなメッセージを聞いて行けばよいでしょうか?でも大丈夫です。「天から聞こえた声」があったとありますから、これを考えていきましょう。

これは天から聞こえた神の声でしょう。そして、それは、人類に対する約束が繰り返され、実現したことを表しています。

神様の約束とは何でしょうか?それは今日読まれたイザヤ書にも語られています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」どんなことがあっても、神様は人々を救う。というものです。

神から離れ、互いに諍いをし、憎み殺し合いさえしてしまうようになった人類です。アダムとエバの子カインとアベルからすでに、兄弟で殺人事件が起こっているのが聖書の伝えることです。「聖なる書」ですが、最初の数ページから人間の罪深さが伝えられています。そして、私たちも皆、その子孫であり、「生まれながら罪深く」と今日も、罪の告白をした通りの状態です。

3.振り返り

私たちの生き方を振り返りましょう。罪深い私たちはどうしたらよいのでしょうか?

神様は、滅ぼし去るのではなく、立ち返り救われるための呼びかけをしてきました。そしてついに、神の子が人となってこの世にあらわれ、自ら教え生きることを始められました。それがイエス様の誕生とその公生涯なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と聞こえた神の声は、人間が堕落する前に、アダムを創られた後「はなはだ良かった」と言われた言葉を思い出します。

そして、イザヤ書の約束が果たされ、新しいことが始まってきたことを思い出しましょう。イザヤ書の先程の続きはこうです。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず炎はあなたに燃えつかない」でした。この声を聴いて、「たとえ火の中水の中」をもう一度思い出しますね。

これは、このように人間が愛する人に語り掛けた言葉よりももっと昔に、天地創造をされた神様が、私たち人間に語り掛けてくれた言葉であったのです。

いよいよ、神の子の誕生と活動開始です。

「洗礼」のことも思い出しましょう。水で洗い清めるのは、多くの宗教でも行われることです。神社でも手と口を順にすすぎ清める習わしがあり、伊勢神宮に参る前に神官たちは五十鈴川に白い衣を着て入りみそぎをする儀式があるそうです。洗礼者ヨハネが施していた洗礼は、それに似たものがあるかもしれません。罪の悔い改めのためですから。しかし、私たちがイエス様によってはじめられた教会の洗礼は違います。一度死に、新しく生まれ変わる事であり、水と霊によって生まれ変わることだからです。

 一度死に生まれ変わるのですが、ここでも今日のイザヤ書をかみしめましょう。神様は、「たとえ水の中でも火の中でも私たちを守ってくれる」と約束されている方だからです。一度今までの罪深い自分は死にますが、新しく、本当の価値ある自分として産み変えてくれる。それが、教会の洗礼です。

4. 勧め 

 どんなに聖書を読み暗記しても、神様の救いはまだ遠いのです。心を決めて、神様を信じて、水の中に飛び込む覚悟ですること、それが洗礼でもあります。

神様が人々のためにこの世に生まれ、現れてくださったのです。

洗礼を受けた方は、そのことをもう一度思い出しましょう。まだの方は、どうぞ、ご相談ください。お招きします。なんといっても、私たちの神様は、たとえ火の中水の中、そして、自らの命を犠牲にするまで、私たちを赦し、愛してくださっているのです。一緒に歩んでいきましょう。