2023年7月9日日曜日

説教・メッセージ 20230709

  荷物置き場で、「荷物」を置くとき「お荷物」と言ってちょっと変でお互いに笑ったという経験があります。「僕がお荷物ということですか?」と冗談で返されたことがあります。「荷物」と「お荷物」でずいぶん意味が変わることがありますね。キリストが言われる「私の荷は軽い」とは、どんな意味でしょうか?一緒に聖書を読んでみましょう。今日は高蔵寺教会で礼拝担当します。外国メンバも来てくれる日です。YoutubeでFacebookでもお知らせする礼拝中継もあります。おまちしています。

聖書の言葉

マタイ 11:16~19 & 25~30

11:16今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。17『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』

18ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 19人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」



説教 「荷物とお荷物の違い」徳弘浩隆牧師

1,荷物置き場

今日の聖書は、「重荷を負うものは、私のところに来なさい」というキリストの言葉があります。聖書を読んで、先日のこんなことを思い出しました。

5月に全国総会がありましたが、東京教会での最終日。それぞれ、最終日はホテルでチェックアウトをして、荷物を持って集まりました。大き目のカバンをみんな2階にもって上がろうとすると、「荷物は1階の集会室においてください」との案内放送。重たい荷物を持ちあがらないでよいようにと、荷物置き場を作ってくれたのでしょう。もう一度荷物を持って下に降りて、出会う人たちと、「荷物置き場はここですねぇ」と声を掛け合いながら、入りました。

わたしは「お荷物置き場はここですね?」と後輩置牧師に聞くと、「はい、そうですよ。僕も、教会のお荷物かもしれませんね」と笑いながら答えてくれました。私のとっさの日本語が変で、「お荷物」と言ってしまったので、ユーモアで答えてくれ、みんな笑って楽しい時でした。さて、「荷物」と「お荷物」の違いは何でしょう?キリストの言われる、重荷とは、何のことでしょう?一緒に聖書の話を聞きましょう。

2,聖書

 今日の聖書の直前は、洗礼者ヨハネがイエスのところに使いをやって質問をした話の次です。洗礼者ヨハネは、キリストが来るのを人々に伝え、その準備のために、洗礼を受けさせていました。罪を悔い改めるためです。イエスにも会い、願われるままに洗礼も授けました。しかし、この人は自分より尊い方だと、そう感じ、そんな話もしました。しかし、その彼が、迷っていたのです。そんなことに、そして、各地で宣教をして回った後で、イエスは今日の言葉を語りました。

 そこには、人々の不信仰と、心の鈍さを嘆くキリストの心がにじみ出ています。

 当時の子供たちの遊びの中の歌だと考えられていますが、「(結婚式のお祝いで)笛を吹いたのに踊ってくれない。葬式ごっこをしたのに悲しんでくれない」という状況と同じだ、と嘆いているのです。

 そして、ヨハネや自分に対する人々の気持ちも、嘆きます。「ヨハネが断食をすると悪霊につかれているといい、イエスが人々と食事を共にするのを大切にすると大食漢で大酒飲みだと批判する」というのです。

 どんなことを語り、行い、人々に寄り添っても、人々は良い方には取らず、神様の本当の言葉や、自分たちが待っていたキリストは誰かとわからずに、自分の知識だけで判断していると、嘆いておられるのです。

 だから、「知恵あるものや賢いもの」には逆にわからず、知恵や力がなくて親にすべて頼っている幼子のようなものの方が、神様の御心を知り従ってくるのだと、いわれます。

 だから、沢山の重荷を持って生きている人々、大人や能力のあるもの、律法を知り沢山の知識や信仰があると思っている人に、それを下ろしなさい、と告げているのです。

3,振り返り 

私たちは、どんな生き方をしているでしょうか? 

なまじっかある自分の知識や、経験。そして、信仰と思っている、聖書に知識やそこにある様々な掟。それを守るよう勧める律法学者やそのように生きていると自信たっぷりのファリサイ派。彼らには苦しめられていやだけれど、自分の知識や好き嫌いで神の人を判断し、イエスの本当の価値もわからずに右往左往する姿、それが当時の人々でした。

それをみて、「重荷を持っているものは、私のところに来たらいい。休ませてあげるのに。」と招くのがイエスでした。

さて、私たちは、何を持っているでしょうか?自分の知識や経験、そして聖書の知識や信仰、確かにそれぞれそれなりに持っています。でもそれが逆に、見えなくしている、苦しくしていることがあるかもしれません。私が持っている重荷は「お荷物」だからです。それは、大切なものと思い必死に抱えているけれど、実は邪魔なものかもしれません。キリストのもとにきて、安心して休ませていただきましょう。その時本当に「父を知ることができる」、つまり神様に出会うことができるのです。

では、キリストに出会うと、まったく何も持たなくてよい、身軽な自由奔放な人生になるのでしょうか?そうではありません。「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」とキリストは言います。牛が荷車を引くときに肩に背負うのがくびきです。それは多きすぐもなく小さすぎもなく、ちょうどその人に合っているから負いやすい。そして、荷車の荷は軽いのです。全くないのではないけれども、神様がその人なら背負える、その人が成長するためにその時々に合った、背負える荷物なのでしょう。それは、不要な「お荷物」ではなくて、大切な本当の宝である「荷物」。それが、「お荷物」と「荷物」の違いだと、考えさせられています。

4,勧め 

 人生の、信仰の「お荷物整理」が大切なようです。そして、本当に神様からいただいた、大切な「荷物」を選んで生きていきましょう。

それは重たいだけで苦しめる「お荷物」ではなく自分を成長もさせ、自分のためだけではなくて、同じ苦しみを負う人々に出会ったときに、役にも立つものです。今週も、キリストは招いておられます。自分のお荷物を確認しながら、キリストのもとに行きましょう。いちど、先入観や自分の判断を捨ててみて、キリストの言葉を聞いてみましょう。そして、大切な荷物をいただいて、生きていきましょう。皆様に神様からの祝福がありますように。


2023年7月2日日曜日

説教メッセージ 20230702

今日は、夏休みのこどもたちのサマー・デイキャンプの打ち合わせをしました。東海教区の他の教会にも呼び掛けた教区の行事にもなるので、Zoomで準備会をしました。去年も聖書を学んだり、ゲームや工作をしたり、スイカ割りをしたり、楽しかったのを思い出します。今年も、たくさん来てくれたらいいなと思います。もうすっかり、頭は8月末ですが、考えてみたらまだ7月になったばかり(笑)暑さや大雨もありますが、祈りながら、元気に安全に生きていきましょうね。礼拝は復活教会で担当し、Youtubeで中継し、Facebookでも10.30直前にご案内します。Youtubeのチャンネル登録をしていただくと、メッセージが来るようになるようです。では、おげんきで。礼拝でお会いしましょう。


聖書の言葉 マタイ 10:40~42 

10:40「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。 41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。 42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


説教 「水とお冷の違い」徳弘浩隆牧師

1, 会計とお愛想、水とお冷…

お店で食事をした後、「おあいそ!」というと会計をしてもらう事ですが、実は、お店の人は言ってもいいけれど、お客さんの方が言うと本当は失礼な言い方だそうですね。これは、「愛想が尽きた」という言葉から来ていて、「食事していただいて、たくさん食べていただいて、もう、お飽きになりましたでしょぅ」という店主の側の感謝とヘリ下りの気持ちがあらわされているからだそうです。

お冷とお水には、調べてもそんな区別はないらしいですが、お水というと一般的な言い方で、お冷というと、やはり、何か気持ちの違いを感じます。それは、お店の側からお客さんに対しての、「冷たい水を一杯準備しました。さあ、どうぞ」という気持ちがあるのかもしれません。

今日の聖書には、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」というイエス様の言葉があります。そこに込められた気持ちや、神様と私たちの関係は、どんなものでしょうか?聖書を読んでいきましょう。

2,聖書

 聖書は、収穫のためにと祈り、弟子たちを送り出されたイエス様でしたが、派遣するにあたってのお話が、数週間続きました。そして、今日の部分がその終わりの部分に当たります。

 今日私たちは、たいそうな「伝道旅行」に派遣されるわけではありませんが、礼拝でみ言葉を聞き、それぞれの生活の場に、職場や地域社会に帰っていきますが、神様から見たら、「派遣」されています。

 どんな心構えで戻っていくのか、どういう風にこの世の現実を生きていくことが大切なのか、そんな気持ちで、今日のイエス様の気持ちを聞いていきましょう。

 「あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れたのだ」とありますが、これは、逆に言うと、なかなか受け入れられないという事がわかります。

 先週の言葉も思い出しましょう。イエス様はこうも言われました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。 わたしは敵対させるために来たからである」と。

 これは、この矛盾や問題だらけの罪深い世の中で正しく生きるという事は、表面的な差しさわりの無い生き方が良いのではないという事です。神の言葉は、罪深い人間の心を見せつけさせ、心に鋭く突き刺さり、分裂さえも起こさせます。まずは自分の、いい加減に生きていた心の中に分裂と、2つの気持ちの対立が起こります。良いことだと思うけれどついていけないとか、悪いことだと知っているけど続ける自分とか、そういう葛藤を生みます。そして、神の正しい言葉に従うなら、今までの善悪をないまぜにして皆に合わせて生きてきた社会では浮いてしまいます。そして、対立も起こるかもしれません。そうでなくても、人それぞれ自分が良いと思う事を自分で決め、つまりエゴイズムで競争や奪い合いをして生きている社会では、対立もあったわけですが、「一人いい子になる」対立を新たに生んでしまうのです。

 そんな自分がいるとして、そんな自分に、「冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、報いを受ける」と言われます。安心して、神様の言葉の通りに生きてゆくことが良いと、考えてよいでしょう。しかし、冷たい水をくれる人の気持ちも大切です。水いっぱいをくれる理由が大切なのです。「食べ物をあげるのはもったいないから、水一杯でも飲んでおけ」という気持ちではだめでしょう。聖書にこう書いてあるからです。「私の弟子だという理由で」と。

 神の言葉を受け入れ、そのように生き、その生き方をお勧めする人を見て、その方が神様からの方だと、イエス様の弟子だからと、そう理解し尊重したなかで、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる」なら、神様もその人をめぐみ祝福すると、続いています。

3,振り返り 

さあ、私たちは、どんな生き方をするべきでしょうか? そういえば、神の言葉をよく勉強し、その通りに生きようとした人たちを知っています。イエス様の当時ではファリサイ派の人たちを思い出すでしょう。彼らのように生きることが良いのでしょうか?もちろん、それは違うと私たちは思うでしょう。たびたび、イエス様が批判されているからです。

では、何が違うのでしょうか?彼らも一生懸命に神を愛し、その言葉通りに生きていました。彼らは、そのファリサイ派という言葉のように、「分離していた」のです。神の言葉を聞かず、知らず、理解せず、そのように生きない人たちを、卑下さえし、自分たちは立派だと、一般民衆とは「離れた生き方」をしていました。それに対して、イエス様は「派遣」されたのです。

今日の聖書の言葉で、イエス様はそのような生き方を私たちに求めているのではありません。自分の中の罪、悪とは分離し、生き方を改めるかもしれませんが、人々から分離して、自分たちだけ救われたという、傲慢な生き方を求めているのではありません。

ファリサイ派のようにではなく、イエス様の生き方を見つめていきましょう。イエス様は、「飼い主のいない羊」のように疲れ果てている群衆を見て、憐れまれました。「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」のです。弟子たちにも、そのようにといわれたのが、「派遣」です。そして、私たちにも、そのように生きるのだ、と言われているのが、今日のお勧めです。

4,勧め 

 私の言葉や、生き方を見て、「神様の、正しい者」として受け入れられるように、願われています。そして、相手が、一緒に神様を見上げて、イエス様の弟子だという理由で、水の一杯でも飲ませてくれる人になれるなら、どんなに幸いでしょう。

 失敗をしたり、時々ぶつかったり、まだまだ不完全なものですが、神様の愛、イエス様の生き方が、私たちから感じていただけるような生き方ができればと、祈らされています。そう、それもご存じで、イエス様は私たちを「派遣」されているのです。同じ失敗をしても、誤りがあれば素直に認め、謝罪と和解をしようと生きるなら、それは尊大に生きて人々を卑下している生き方とは違い、近寄りやすく、良いお手本になるでしょう。私たちも、完璧な生き方を一生懸命努力するより、また「装う」よりも、そんな生き方をするときに、「キリストの弟子」と思われるのかもしれません。その時、先週の聖書にあったように、「キリストの友」とキリストに呼ばれるものにされていくのでしょう。安心して一緒に、生きていきましょう。

 

牧師コラム 

文化の違い、知り、認め合い、豊かにされる…

先週は、私が日本語をお教えしたり日本での生活を支援している「ぺらぺらクラブ」の外国メンバーのお二人が結婚したので、カトリック教会のミサに出かけてきました。私たちの教会の草刈りやバザーなども手伝ってくれ、教区の青年会・外国メンバーのクリスマス会などにも参加してくれたメンバーたちの二人です。彼らはベトナム人の技能実習生です。正確に言うと、先に来た男性は3年過ぎて試験にもパスして特定技能ビザを取得し、後から来た女性の方が技能実習生。7月には日本語能力試験も待っています。一緒に勉強したり交流しているのは、ブラジル人、インドネシア人、中国人、そして帰国子女といわれるひと、そして中国帰国者たちです。最近はネパールの方もZoomで一緒に勉強しています。

ベトナム人のミサは、若者が5-60人、いやもっと、いたでしょうか。日本で働いている若者達です。驚いたのは、ミサの間、そして聖体拝領(聖餐式の配餐)の列で、みんなが「腕を組んでいる」ことです。新郎新婦も一番前の席で神父さんの話を聞くときに「腕組み」をしています。なにか、不遜な感じ。表情次第では不満を表しているようにも見えるかもしれません。聞くと、それは相手への尊敬の姿勢でもあるそうです。Zoomの日本語講座でそんな話になりました。そういえば、挨拶ではタイでは日本人が拝む姿勢のように「顔の前で手を合わせ」、中国では「グーをした左手を右手でかぶせて顔の前で合わせる」そうです。ネパールの人に聞くと、インドの人と同様、「ハイ」の時に「首を回すように振る」人も多いとのこと。首を横に振る、縦に振るのはできても、「回すように振る」というのは、日本の人は、慣れないとできない人も多いようですね。私は、インド出張の時に、練習してできるようになりました。いろんな言葉や文化の人が日本で一緒に生きています。神様のもと、平和に楽しく生きていきたいですね。