2022年2月13日日曜日

週報・メッセージ20220213

落ち葉を掃除しても風に吹き飛ばされて元の木阿弥。そんなことありませんか?教会の牧師館に住んでいると、よくある話です。妻と二人、頭を抱えて、何度も何度も掃除… まてよ。これは、僕らの人生かもしれません。聖書にそんなところがあったな。 どうすればいいでしょう? 礼拝で考えましょう。大垣教会でメッセージしますが、YoutubeとFacebookでも中継します。どうぞ、おいでください。






聖書の言葉 
詩篇1:1-6 
1いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 2主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。5神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。6神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

ルカ6:17~26 (新112) 
6: 17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。

説教「風に吹き飛ばされる もみ殻」 徳弘浩隆師
1. 「つたのからまるチャペルで」…は素敵?
「蔦のからまるチャペルで 祈りをささげた日~♪」という有名な歌があります。教会の一つのイメージで、それは素敵な、神聖な、祈りの場所です。しかし、興ざめするかもしれませんが、教会に住んでいる牧師からすると、ちょっと面倒なことでもあります。雑草を刈って、からまった蔦を引き抜いて、フェンスから丁寧に外していかなければならない、夏の毎週の作業が待っているからです。去年は岐阜教会は奉仕者も得て草刈りをして、防草シートを敷いて、上に茶色の瓦チップというのを敷設しましたので、それ以降はだいぶきれいに、楽になりましたけれど。
さて、草刈りの跡がまた大変です。秋の落ち葉も同じです。風が強い日は何度ほうきで掃いても、集めても、吹き飛ばされて元の木阿弥。隣の家の駐車場にも広がってしまって、妻が悲鳴を上げながら集めます。
今日の聖書の詩編の冒頭部分、「神に逆らうものは、風に吹き飛ばされるもみ殻」という言葉は、身に染みます。神に従うものと、神に逆らうものの人生を、そんな風にたとえています。それは、何度頑張っても、うまくいったと思っても、風が吹けば吹き飛ばされて元の木阿弥。いや、もっと状況はひどくなり、手に負えなくなる。そして実は、吹き飛ばされるもみ殻や落ち葉の方が、行き場のない自分の人生。それが、神様に従わない者の人生といわれます。なるほど、そうだなぁと、思い知らされます。

2.聖書を学びましょう
今日の福音書のイエス様の言葉も、何が幸いで、何が不幸かということを話されています。詩編のストレートな言葉と違い、イエス様のお話しは少しびっくりするような予想外の言葉で、人々の心に訴えています。
それは、「貧しいものは幸いだ」といわれるからです。誰でも、貧しさより豊かさを願います。飢えよりも満腹を、泣くことよりも笑うことを、憎まれるよりもほめられ好かれることを願います。しかし、その逆の、私たちが願わないことの方が「幸せなんだよ」と言われました。これは、どう理解したらよいのでしょうか?
その理由は、不幸な人のことを言うイエス様の言葉を聞くと分かります。彼らはすでに、慰めを受け、満腹し、称賛を受けている、つまり、満足してしまっているからということがカギです。満足そのものが悪ではないでしょう。そのとき人間が陥りがちな落とし穴が問題なのです。
それは、満足して神様に感謝して、人にも分け与えるのではなくて、自信過剰になり、もっと独占しようとする心の動きが、私たち人間にあるからです。そんな自己中心の心、どうしようもないくらい罪深い心を持った私たちのことを、聖書は「罪人(つみびと)」と言います。自分を愛し、人を疎んじる。幸せを感じ、苦しい時のことや苦しんでいる人のことが見えなくなる。それが私たちの哀れな姿です。
それよりも、貧しく、悲しく、飢えている時の方が、神様に頼まざるを得ない謙虚な時の方が、本来的な神様との関係が保てるというのです。

3.振り返り
私たちはどうでしょうか?貧乏をしたことがあると、その時の心細さを知っているから、安定してきたときに神様に感謝して、苦しみの中にいる人たちを助ける心があり続ければいいのですが。また苦しくなってはいけないと、せっせとため込んで他の人のことなど気にしなくなるかもしれません。挿絵にあるように、風に吹き飛ばされる紙幣を追いかけ、自分の豊かさだけを追い求めて走り切る人生は、終わりの頃には幾分たまるかもしれませんが、目の前にはもう終わりが迫っているのです。もちろんお金も大切です。しかし、こんな最後まで安心できない人生を送ってはいないでしょうか?
私たちは、喉元を過ぎれば熱さを忘れますが、それを忘れないためにはどうしたらいいのでしょうか?今日の福音書の最初にもカギがあるように思います。
マタイが伝えたイエス様の姿と、ルカが書き記して伝えた姿には視点の違いがあります。マタイは、旧約聖書をたくさん引用しながら、イエス様は預言されていたモーセのように人々を解放する方、神様との仲介をしてその言葉やおきてを伝え、奇跡をする方という印象が強くあります。だから、「山上の説教」といわれるように、山の上で人々に語った日のことを書き残しています。モーセが山に登り十戒を得てきて人々に伝えたのをほうふつとさせるようにです。
しかし、ルカは山の上ではなくて、「彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」のです。そういえば、先週のイエス様の説教をした場所も、小高いところではなくて、みんなを小高い岸辺において自分は小舟に乗って湖からみんなに語りました。ルカは、高いところから来られた神の子や預言者ということよりも、低くされた人、苦しみあえいでいる人たちと同じところにいるイエス様の姿や姿勢・生き方がたくさん伝えられているのです。

4. 勧め 
ユダヤの民も、他国で寄留の生活をし、奴隷のような境遇に苦しんだ歴史がありました。だから神様は「寄留の民を愛しなさい。あなた方もかつてそうだったのだから」という掟が旧約聖書の中にすでにあります。しかし、そこから救われると、他の民を圧迫し見下すようなところがありました。「自分たちは選ばれた民で、特別なんだ」と、救われた出来事を思い出す過越祭などを大切にしますが、他者を愛し助けるようにという神の愛の勧めは忘れていました。今日のイエス様の教えはそんな状況の上にも立っているのです。
あなたはどんな苦しさを体験しましたか?それから解放されたら、「やれやれ、よかった」ではいけません。かつて自分がそうだったから、そういう人に手を差し伸べるよう、促されています。それぞれ違っていいのです。潜り抜けてきた人生が違うからです。寂しかった、苦しかった、辛かったその思い出は、閉じ込めるのではなくて、神様に開放していただいたことを思い出し、そんな人に自分は出会っていきましょう。そのとき、あなたの差し伸べる手は、あなたが聞いてあげる耳は、キリストの手、キリストが聞いて下さるやさしい耳になります。
祈りましょう。「神様、私をキリストの手にしてください。耳に、口にしてください。この世界で苦しんでいる人に、神様の救いと愛を伝えさせてください。」
みんなの幸せは、そこにあるはずです。


2022年2月5日土曜日

週報・礼拝メッセージ 20220206

 週報・礼拝メッセージ 20220206

あすは、岐阜教会で礼拝メッセージをします。大垣でも、信徒礼拝があります。どうぞ、おいでください。でも、大雪警報も出ました(現在)。おきをつけて、またはむりされないで。YoutubeやFacebook中継もあります。




聖書の言葉 

ルカ5: 1~11 (新109)

5: 1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。 10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」 11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。。


説教「何をいまさら、という時でも」 徳弘浩隆師

1. 「だから、あの時そう思ったんだ」と…

大変な失敗をした後、落ち込む気持ちに追い打ちをかける言葉がありますね。「やっぱり、そうなると思っていたんだ。どうしてそれが分からなかったのかねぇ」という言葉です。

全然関係ない人で、あとから聞いた話でそう言われるならまだしも、「一緒にその場にいて、その時は何も言われなかったのに、今になってあなたが言うのか?」という状況の時があります。

最近は母の入院で父とは二人だけでいろいろと話すことがあり、急に一人暮らしになってしまった父は少し寂しい思いをしながらでしょう、多少自虐的な事でも思い出して話すことがあります。二人で笑いながら意気投合しました。

それはこんな具合です。「少し車の運転が下手になってきたかなぁと思うことがあるんだ」と私が言うと、父の話が始まります。「父さんも歳を取って下手になってきて、ちょっとしたところで車をぶつけたりしたよ。若いころは上手だったけど、つい標識を見逃してスピード違反で捕まったりしたなぁ」と。そして「そういう時いつも母さんに怒られたもんだ。『どうしてこんなことに気付かなかったの?私はここ危ないと思っていたのよ』」と。そして二人の共通の意見はこうです。「そうだそうだ。ああいうの、いつも後から言うんだよね。私は分かってたって。本当だったら、どうして、その時言わないのかねぇ。しかも、自分は免許持ってなくて運転しないのにねぇ」と二人で大笑いするのです。

もちろん、陰で悪口を言うのではなくて、母親がいなくて寂しくて、二人でしみじみと笑うのですが。

そこには二つの論点があります。「あの時は何も言わなかったのに」、ということと、時には「あなたは専門外で何もしらないくせに」ということです。

2.聖書を学びましょう

今日のイエス様も、少し似た状況でしたが、大きく違うことをされました。

ゲネサレト湖畔、これは別名ですが、ガリラヤ湖の湖畔でのイエス様の活動の初めのころの出来事でした。

評判のイエス様のお話を聞こうと群衆が押し寄せてきたのですが小高い丘もなく、ちょうどよい教壇のような話をしやすいところをと思われたのでしょう。岸で漁の後の網を洗っていた舟の持ち主に頼んで、それに乗り込んで、少し漕ぎ出してもらいました。そこで船に腰を下ろしてみ名に話をされたのです。どのくらい話されたかは記されていませんが、話が終わって、さて舟を岸に戻そうという時が来ました。しかしイエス様は舟を岸に戻すのではなく、逆に「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われました。

その舟の持ち主シモン、つまりシモン・ペトロは少しの問答をしますが、言われるままにしました。すると、たくさんの魚が獲れ、イエス様の呼びかけに従って、イエス様に従うもの、つまり弟子になっていったというお話でした。

3.振り返り

さて、これを読んで、イエス様の奇跡の力を見るわけですが、それだけだと、それなりの「昔の奇跡の物語」という「ありがたい話」に終わるでしょう。

しかし、ペトロの気持ちを考えてみることが、今の私たちに神様はこの出来事を通して何を語り、何をなさり、何を願っておられるかを聞くことができるようになります。

ペテロの状配はこうでした。1)夜通し苦労したけれど何も獲れなかった。2)収穫がないので疲れが倍増してようやく岸で後片付けをしていた。3)そんなところにやってきて、自分の事情を何も知らないこの人が話をするために舟を貸して少し出してくれと言われた。4)でも、評判の偉い先生だし、この人の願いにこたえてあげようかと思った。5)ようやく話が終わって、岸に戻ってさっさと後片付けを済ませて家で一休み、ひと眠りしようかと思っていた。6)そんな自分の気持ちも知らないで、沖に行って網を打てというのか。7)この漁は夜やるものだから日中にやっても無理なのに、この人は何を言うのか。8)そういえば、この人は大工の息子らしい、漁のことは何も知らないんだ。9)どうせ来るならあの時、夜に漁に出る前に来て言ってほしかった。もう遅いよ…

推測も含めて想像を広げてみると、こういう具合かもしれません。私が父と母のことを思い出して、少し身勝手な母の発言を懐かしく笑った、「そういうなら、あの時言ってくれたらいいのに」「あなたは、専門外で何も知らないくせに」という気持ちも思い出します。そして、上の9つのペテロの心の中のセリフは、良く考えてみると、私たちの人生で何度もつぶやいたことがあると、身に覚えがあるものです。人間関係で、そして、神様との関係でです。そんなことはありませんか?

「人の苦労も知らないで。どうして神様、あの時に声をかけてくれなかったんですか?今じゃあ、もう遅いですよ。それで、もう一度しろっていうんですか?いや、これには難しい事情もあるし、あなたは何もわかっていない。それより、私は今から帰って、ゆっくりしたいんですよ。結果が出なかったいま、非常識にもう一度挑戦することよりも、家でゆっくり寝ることがわたしの願いなんですよ。もう、ほっといてください。人の人生に急に勝手に入り込んできて。振り回されるのはもうこの辺で終わりにしたいです。やってみてダメなら、責任取ってくれますか?」

と、もう少し自分に覚えがある言葉にするとこういう感じでした。そんなペトロに、イエス様は何をされたのでしょうか?「何も知らないくせに」だったのでしょうか?

イエス様は、神様は、そんな気持ちを全部知っておられたのです。だからこそ、「今からもう一度やってみよう。このまま家に帰って『ふて寝』するんじゃなくて、私の言うようにやってごらん。私が責任を取り、保証するから」という促しをして、そして、結果を見せてくれました。これで、ペトロは驚き、自分の罪深さを告白し、自分から離れるよう願いました。それは、自分が遠ざかるのではなくて、舟の上ですから、この自分の罪深い船から降りて遠ざかってください、と願ったのかもしれません。どんな失敗だらけの舟・人生でも、イエス様の願いにこたえようと知らずにしたことが、イエス様を招き入れることになりました。そして、貧しく徒労に終わった罪深い人生と、できるならあの網がいっぱいになるほど魚が取れたら生活も楽になるのに、という願いもすべて神様は知っておられ、予想外の命令をし、それを信じ従った時に、たくさんの恵みをくださったのです。

4. 勧め 

神様の呼びかけはいろいろなきっかけがあるでしょう。聖書の言葉や、教会が直接心に響くことも、誰かの言葉を通してという時もあるでしょう。反対に、困っている人を助けてあげようと、その願いにこたえてを貸してあげている時に、逆にイエス様にその手をつかまれ、新しい人生に引き込まれることもあるのです。

教会の働きは、聖書を学ぶだけではありません。勉強が苦手とか、自分みたいな罪深いものがとか、関係ないのです。イエス様にいろいろなきっかけで手をつかまれ、引き上げられれ引き込まれ、不完全さを認めそれ(罪)をゆるされ、新しい人生を始めた人たちの集まりです。一緒に笑い、泣き、祈り合い、助け合う、神の家族の共同体です。さあ、あなたも、いっしょにどうぞ!