聖書の言葉
使徒言行録 2: 1~21 (新214) から
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
説教「人はこうして生きる者となった…」徳弘浩隆牧師
1、霊が降(くだ)るって?
今日は教会の暦ではペンテコステ、聖霊降臨祭です。ペンテコステという言葉はユダヤ教でもあったお祭りの「50日祭」というお祭りのギリシャ語の言い方です。ユダヤで大麦の収穫を祝う春のお祭りでした。今でもシャブオット(50番目の)というお祭りが大切にされています。ちょうどこのお祭りの日に、各地に散らされていて住んでいたいろんな言葉を話すユダヤ人たちが、エルサレムに集まっていた時にあることが起こりました。イエス様の弟子たち一同が一つになって集まっていると、大きな音がして、炎のような舌が現れて頭の上にとどまり、聖霊に満たされた、という出来事が起こったのです。聖霊が降った、と言われます。
何が起こったのでしょうか?霊が降るというと、ちょっとコワいような感じもしますね。実際周りにいた人たちはびっくりしました。今生きている私たちにどう関係があるのでしょうか?一緒に学んでいきましょう。
2,聖書
使徒言行録にその日の出来事が記されていますし、今日読まれた福音書には、イエス様が十字架にかかられる前に、このことについてあらかじめお話ししておられたことが書かれています。
使徒言行録によると、霊が降ると、いろんな言葉を語らせました。各地から集まったユダヤ人はびっくりしたのです。しかし、酒に酔っていると思ってバカにする人もいました。そこでペテロは答えました。そうでは無い、と。これは、預言者ヨエルが預言していたことなのだ、と。
終わりの時には、私の霊をすべての人に注ぐ、と。終わりの日というのは、聖書の中では多くの場合、「裁きの日」、そして同時に「救いの日」を表します。問題だらけの世の中に、苦しみや悲しみの罪の世の中に、神様が介入されて終わらせる日。罪深い人は滅ぼされ、信仰ある人は赦され苦しみから解放される日だからです。それが実現したのが、この聖霊降臨祭でした。
神の霊が注がれた結果、弟子たちはいろんな知らないはずの言葉を語りだしました。しかし、それそのものが奇跡ではありません。それがずっと続いたとは聖書にかかれていないからです。弟子たちが他言語話者になったのではありません。その出来事そのものは一時的だったのでしょう。それが意味する役割が大切です。それは、彼らがイエスキリストのご生涯や十字架と復活、その意味を、旧約聖書からひも解いて多くの人がわかるように説明したという事です。
イエス様を失い、復活された後に再開し改心しましたが、天に帰られ、取り残された彼らです。天をずっと見上げていた彼らでした。しかし、約束通りエルサレムにとどまっていると、聖霊が降りました。彼らは、キリストの言葉を体をもって体験し、心が燃やされ、このことを集まった多くの人々に、今までと違って、自信と確信をもって説明したのです。その結果、洗礼を受けてその日のうちに仲間になったのは3000人だったのです。これが大切な事でした。
3,振り返り
私たちの生き方はどうでしょうか?私たちの生き方と、聖霊が降るという事は、どういう関係があるでしょうか?
私は、忙しくて目が回っていました。良かれと思って一生懸命しているのに批判されたりもして、少々疲れてもいました。そんなある日、神様に「文句」も言いながら歩いていました。用事があって鶴舞公園に行ったときです。きれいなバラ園があってたくさんの人が見たり、写真を撮ったりしていました。広いバラ園ですが、横切ったついでに少しだけ回りました。見ると、いろんな名前の付けられた品種があります。マリア・カラス、ベルサイユのばら、ホワイト・クリスマス…などです。「まあ、よくいろんな名前を付けたもんだなぁ」と独り言を言いながら、一つのバラの前で立ち止まりました。「ティアーモ」と書いてあったからです。カタカナでもアルファベットでも一言で書いていますが、説明を見るとイタリア語で愛の言葉とあります。私がいたブラジルのポルトガル語でも同じように言うので、ピンときました。それは、「Ti amo」(チアーモ)という言葉で、「I love you」の意味です。
神様に文句も言いながら、疲れて歩いていた自分は神の声を聞いたような気がしました。「私はあなたを愛しているよ」と。「文句ばっかり言わなくていい、心配しなくていい」と。心が温かくなりました。写真を撮って、早速この言葉が通じるブラジルの教会学校でお世話していた子たちにメッセージで送りました。すると、少しして、二人から返事が来ました。「Ti amo!」と書かれています。突然神様から「愛しているよ」という言葉を聞いた気がして元気になったので、それを人にも伝えようと送りました。すると、同じ返事が来て、もっと元気になりました。
神様を愛し、人を愛するのが聖書の教えですし、神様の願いです。でも、それができずにいる罪深い私たちを、教え赦し、生まれ変わらせるために、キリストの十字架と復活があり、約束の霊が降ったのです。これによって私たちは、神様によって新しく生まれ変わらせられるのでした。人は本来このようにして造られたと旧約聖書には書かれてありました。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この神の息は、霊だと考えられています。しかし、その神を裏切り離れ、憎しみや悪事を働く人間は罪びとと言われてしまいます。しかし、「終わりの日」にすべての人に、霊を注ぐと約束された神は、キリストの出来事によって、それを実現されました。
神の愛に気づき、互いに愛し支え合う生き方をする、本当の意味ある命に、生まれ変わることが起こるのです。「こうして人は生きるものとなった」という言葉が、今の私たちに、私に、実現するのでした。
4,勧め
今日は、復活教会では洗礼式があります。年齢に関係なく、私たちは、この出来事によって、生まれ変わります。ペンテコステの日には、霊が降り、多くの人が洗礼を受けて仲間に入りました。赤い炎を覚えて、伝統的には、赤いバラの花びらをシャワーのようにまく教会もあります。水と霊とによって新しく生まれ変わる、それが洗礼式です。わたしたち一人一も、もう一度、それを見つめましょう。そんな神様との関係を回復して、生きていきましょう。
-----------------------
牧師コラム・ フィンランドからお客様
先週は、フィンランドからお客様が来られました。全国の牧師会が終わって名古屋に帰りついて少しして、彼らを大曽根駅にお迎えに行き、楽しい3日間が過ぎました。
Kosti Kallio、Sirpa Kallio夫妻は日本に21年いた宣教師で、私も京都で一緒に働きました。楽しいお二人ですが、まじめな先生と、ギターを弾いて歌っておしゃべりをして明るいシルパさん。私がブラジルにいるときは、サンパウロにも会いに来てくれました。宣教師同士、喜びや悲しみも分かる仲間のような気がします。2教会の案内や、高蔵寺では予定が合ったので聖研や交流会もできました。ありがとう!
世界に広がる教会。一緒に宣教や平和実現を。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。