2024年4月28日日曜日

説教メッセージ 20240428

聖書の言葉 ヨハネ 15: 1~ 8 (新198)

15:1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。



説教「キリストにつながる フォロウとシエアとリンクの違い」」

徳弘浩隆牧師

1、インターネットの時代、つながるとは?

便利な世の中で、手のひらで調べ物をしたり、友人と連絡をとったりできるようになりました。近況報告は年賀状という時代もありましたが、今では、年に一度の力作に頼らなくても、日常から、近すぎず、遠すぎず、互いの近況を知ることができます。

教会でもそうです。1995年ころそれを感じました。パソコンも高価なMacを買わなくてもWindowsが使いやすくなり、パソコン通信からインターネットへ移行する時期でした。日曜日に会って挨拶する言葉は、「おはようございます。一週間お元気でしたか?」という言葉ではなくり、「おはようございます。先日は大変そうでしたねぇ。あれからどうなりましたか?」に変わったのです。主に若い世代で、教会で会う日曜日以外でもネット上で互いの状況を知ることができるようになった頃でした。そんな挨拶をしながら、自分でも驚いたのを覚えています。

しかしそれも今は昔の話。世代を超えてこれはもう、当たり前になってきました。私たちは以前にも増して、お互いに「つながっている」ということが普通で、簡単になってきました。

今日の聖書で、キリストは「私につながっていなさい」と言われます。人間同士、そして神様との関係では、どんな具合でしょうか?神様は、私たちにどんな生き方を願っておられるでしょうか?一緒に学んで神様の声を聴きましょう。

2,聖書 

聖書の中には、神様と人との関係をたとえているいろいろなモチーフがあると先週考えたばかりですが、先週の「羊」のたとえと同じように何度も出てくる「ブドウの木」のたとえの中の一つです。キリストの復活後に読まれるのですが、十字架にかかられるもっと前の話です。なぜ復活後にこの箇所が伝統的に読まれるかというと、ヨハネの福音書の中の13章から16章までの、いわゆる「決別説教」の中の話で、最後の晩餐の折に弟子たちに語られたお別れの大切な話の中にあるからです。もう一度、キリストの告別の大切な話を復活節に思い出して生きていこうという流れになるからです。

さて、ブドウは旧約聖書からたびたび、神と人との関係を伝える譬えに使われています。まことのブドウの木につながっていながら実を結ばない枝は、農夫である父なる神が取り除かれると、裁きを伝えます。旧約聖書のエゼキエル書15章にも、「役に立たぬブドウの木」と小見出しが付けられている箇所は辛辣です。「森の木々の中で何の役にも立たない。役に立つものを作る木材にもならず、器物をかける釘にもならない」と、神につながっていない人の命の無意味さを皮肉と嘆きを持って語るのです。

そんなブドウの木のたとえをさらに進めて、「私こそ、まことのブドウの木なのだ」とキリストは言われました。この方につながっているなら、そのみ言葉によってきよめられ、実を結ぶことになる、と。

3,振り返り 

私たちがここで注意して、努力するべき点はどこでしょうか。それは、「私たちは枝である」ということです。枝は自分の努力で水分や養分を土から吸収したり、太陽の光で栄養を作り出すことはできません。それは、根の役割であり、葉の役割です。枝はただきちんとつながっているということが大切です。枝や茎には導管と師管という動脈と静脈のような二種類の管があってそれらを循環させていると、中学のころ教わったのを思い出します。

私たちは、枝として、キリストという本当のぶどうの木につながっているだけで、自分の行いによらず、豊かな実を結ぶことができるのです。ブドウの木が、枝に養分や水分を注ぎ込んでくれます。私たちも、必死にしがみついてつながっていて、それら養分や水分を必死に吸い採る努力をすることが求められているのではありません。大切なのは、つながり、とどまっていることです。そうすれば、キリストの真理と愛と命が注ぎ込まれるのです。簡単と思うかもしれません。しかしそれが危ぶまれる状況でした。最後の晩餐の席で、キリストが文字通り、「命がけで」弟子たちに最後に伝えたかった言葉だったからです。このことが再現される聖餐式でも、このキリストの言葉を味わい、とどまり、キリストの体と血をいただきながら、つながり生かされ続けることを、確認していきたいと思います。

4,勧め 

さて、今日の謝意所は、「つながること」が以前にもまして簡単になった世の中のことを考えました。

今では普通になり、役所の提出物や広報もSNSが使われています。いろんなニュースや出来事も共有されます。私たちも、活用し、楽しみ、便利に生きてもいるでしょう。友人知人に限らず、いつも面白いこと、ためになることを発信する人を見つけたら、「フォロウ」ボタンを押して逃さずに見ようとします。納得したら「いいね」ボタンを押して参道の意思表示もします。そして「これは自分の知り合いにも伝えなきゃ」と思ったら「シェア」ボタンを押したりもします。今はそんな生き方が普通になってきました。

では、私たちの神様との関係はどうでしょうか?「私に従え」と言われたキリストに従うのは、文字通り「フォロウ」でしょう。聖書を読んで説教を聞き、祈りを共にするときに「本当にそうだなぁ!」と思いいう言葉は「いいね」ではなくて教会では「アーメン、その通りです」となります。こんないいお話は、人にも伝えないともったいないと思って「シェア」するのは「伝道」や「宣教」ということになるでしょう。

でも大切なのは、スマホのボタンを押すだけのような生き方ではいけないということです。私たちの生き様やいのちがかかっている出来事は、 キリストにしっかりとつながってそのように生きることです。それは、ただ「フォロウ」や「いいね」や「シェア」を座りながら押すことではありません。私たちの生き方が問われています。キリストと本当につながり、そのように生きること、そのボタンを押せばキリストが見え、キリストにつながっていくこと、それは「リンク」のボタンではないかとも思います。

今日はブラジルという異国で一緒に生きて、宣教をした姉妹が礼拝に出てくれています。キリストのもとで私たちも同労者、家族のようにつながっていました。数年ぶりに日本で再会し、遠慮なくいろんなことを話しあい、昨夜も時間があっという間に過ぎました。失敗や、恵みや、笑い話を互いにしながら、しかし、すべてを計画し導いておられる神様を一緒に見上げることができました。

そんな同労者、キリストにある家族のような群れを、私たちも作り上げ、広げてゆくこと、キリストに動かされて自分も変えられていくこと、それが豊かに実を結んでいくことなのだと、実感させられました。一緒に生きていきましょう。神様と。

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牧師コラム・ 今日の写真 こんなところに! 


 教会の階段、急いで駆け上がろうとしたらなんと、花が咲いています。こんなところに!

むかし、アスファルトで舗装された道にたくましく育った大根が有名になりました。「ど根性大根」と。調べると2005年、兵庫県の相生市でした。相生市のマスコットのゆるキャラとしても、「ど根性大根 大ちゃん」として健在だそうです。

この教会の階段に自生した花は、ど根性というより、りりしく、きれいに花を咲かせ、教会に来る人を歓迎している優しさやHospitalityを感じます。私たち一人一人も、教会に来る人を笑顔で迎え、ほっとさせてあげられる、そんな一人一人になりたいですね。それぞれの教会でも、せっせと、草刈りや雑草抜き、お花の世話をしてくださる方々に感謝しています。そんなお一人お一人も、こんな花のような存在です。ありがとうございます。


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