2024年3月17日日曜日

説教メッセージ 20240310

聖書の言葉 ヨハネ3:14~21 (新167)

14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」




説教「聖書に込めた神の思い」徳弘浩隆牧師

1、ところで、結論は何なの?

言いたいことがたくさんあると、つい、話が長くなってしまいます。短くしようとしても、いろいろと話したいことが頭に浮かびます。時間を節約しようと思えば、結局、早口になってしまうのです。それが私の悪いところだと思います。

しかし、そんな自分の欠点を棚に上げて、話の長い人の話を聞いていると、だんだん、こう言いたくなってしまいます。「ところで、結論は何なの?」と。

先日、自動車運転免許の更新に行ったときに、そんなことを思わされました。ずっとゴールド免許でしたが、帰国後にまだ日本の車社会に慣れなくて(?)、数回スピード違反などをしてしまって、講習を受けることになりました。講師は丁寧に話してくれました。罰則のような講習に不満を持っている人も多いからでしょう。そのうえ、法律用語もあり正確に話さねばなりません。必然的に話は難しく、長くなります。やはり、早口になって、聞きにくいなぁと、思いました。その時に、自分の欠点を思い出さされたのです。「ああ、自分も気を付けないといけないな」と。

受講者の中には外国人も数人おられる様子で、ブラジル人の方もおられました。多くの日本人は黙って座っていますが、私は彼らと目が合うと、お互いに会釈をしたり、つい、声をかけたり。休憩時間に髭で体格のいいブラジル人の方と話しました。聞けば、サンパウロの人で、私のいた街や通りもよく知っている人でした。「今日の話、むつかしいでしょ?わかる?」と聞くと、「むつかしいねぇ。60%くらいわかるかなぁ?何の話をしているかというのは、わかるけどね。ハハハ」と苦笑い。「ごめんね。日本の人は外国の人と話すときには、簡単に話せばいいけど、慣れてないんだ」と答えました。

大切なことだから、順序正しく、丁寧に、誤りなく話せば、長く長くなります。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、聖書にも、同じことが言えるかもしれません。「ところで、結論は何なの?」と言いたくなるかもしれません。今日のイエス様のお話は、そんな聖書を一言で、まとめたような話とよく言われるところです。それは、どんなポイントだったのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。

2,聖書 

話の相手は、ユダヤ教のファリサイ派に属し、ユダヤ人の議員でもあったニコデモという人です。ファリサイ派は聖書を学び、詳しく、その通り厳格に実践し、そうでは無い人たちを指導、そして軽蔑さえしていました。議員というのはローマ帝国の支配下にあったユダヤで、宗教・政治の自治組織の議員です。彼らは体制派で、イエスという新しい人気の指導者が目障りで批判し、上げ足をとろうと議論を挑んだりもしました。しかしこの人は、人目を忍んで夜にイエス様に会いに来たのです。イエス様に敬意を示し、対話をしにか、教えを請いに来たのでした。

その会話はイエス様に「ラビ」と呼びかけて始まります。有名な、「ひとは、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「年を取ったものがどうして生まれることができましょう?」という問答がありました。丁寧に謙虚に質問を続けるニコデモに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことがわからないのか」と言った後、今日の話につながってゆきます。

「神のもとから来られた方」とイエス様に教えを請いながらその奥義がわからないニコデモに、「人間には天に昇って神の奥義を知ることはできないが、私は天から降ってきたものだから、それを知っている」という具合に説明し、「再び天にあげられる」とも説明を続けます。これには二つ、いやそれ以上の意味がありました。やがて天に帰るという意味であげられるというだけでなく、十字架に上げられるという事でした。そしてやがて来る復活も「あげられる」という言葉で実現していきます。

3,振り返り 

「ところで、結論は何なの?」と言いたいところです。今日のポイントは何でしょうか?

これら説明が続いた話のポイントは、「そこまでなさる神様の愛」という事になります。聖書をよく知っているニコデモに、モーセの時の出来事を持ち出して説明しました。罪を犯した人々が苦しみましたが、木の上にかけた蛇を見上げれば救われるという不思議な出来事がモーセの時にありました。ちょうどそのように、キリストである自分も、「上げられる」のだというのです。それは、人の罪、その原因となった蛇、その蛇を木に上げるように人々の罪の身代わりとして十字架という木にかけられていくキリストの運命を説明されたのでした。創世記の初めの罪の出来事や、モーセの時の人々の罪とその救いを思い起こしながら、キリストの十字架へとつながっていく神様のご計画が、わかるようになっています。そして、これは、神が大きな愛の方で、信じる全ての人を赦し救うための出来事なのだ、という事でした。

4,勧め 

分厚い聖書のポイントはどこなのか。イエス様の難しいと思えるお話のポイントは何なのかと、聞きたくなることがあるかもしれません。しかし、その明確な答えが今日の聖書の言葉でした。

ヨハネによる福音書の3章16節は、多くの人が引用する有名な言葉です。聖書全体を一つの文章に要約するとこの文章になるという意味で、「ミニバイブル」という人たちもいます。マルチン・ルターも「これは、聖書の縮図であり、また小さな福音書です」と言ったとされています。

私たちは、そこに、自分の罪深さとともに、神の愛を見上げていきましょう。謙虚さと他者をも愛する心は、そこから生まれてきます。そう生きることこそ、個人も、家庭も、社会も、世界も平和で安心して生きてけるカギなのです。それが、今日の長い話の結論でした。一緒に、そして神様と一緒に生きていきましょう。

 


牧師コラム・ AIとともに聖書研究会!?  

先週の聖書研究会は、緊急告知した通り、「イスラム教とラマダン」でしたが、話が長くなり(すみません)、後半は次回のお楽しみです。AIも使って下調べをさせて、一緒に学び、検証し、自分の生き方を考えるという聖研です。という事で、そのまとめのコラムは次回にして、今日は、ヨハネ3章16節についてAIに聞いてみました。


User TOKUHIRO:ヨハネによる福音書3章16節に対する、有名人の引用やコメントを列挙して説明せよ

答えChatGPT:ヨハネによる福音書3章16節は、キリスト教の教えの核心を表す聖句として、世界中の多くの有名人、神学者、牧師、思想家から引用され、その意味についてコメントされています。ここでは、いくつかの著名な引用やコメントを紹介しますが、実際にこれらの人物が直接述べた言葉や出版物からの正確な引用ではなく、ヨハネ3:16に関する彼らの考え方を一般的に反映したものと理解してください。

1,ビリー・グラハム - 20世紀を代表するアメリカの伝道師。彼はヨハネ3:16を「最も偉大な愛の物語」と呼び、この聖句が神の愛と人類への救済の計画を最も明確に表していると信じていました。

2,C.S. ルイス - 「ナルニア国物語」の著者であり、キリスト教の擁護者としても知られています。ルイスはヨハネ3:16を通じて、神の無条件の愛と、罪からの救済への道を提供する神の計画の重要性を強調しました。

3,マーティン・ルーサー - 宗教改革の指導者であり、彼の神学的な洞察はプロテスタント教会の形成に大きな影響を与えました。ルーサーは、ヨハネ3:16が信仰による義認の原則を象徴していると考え、この聖句を「信仰だけによって」救われるという彼の教えの中心として使用しました。

4,マザー・テレサ - カルカッタの貧しい人々に仕えたことで知られるカトリック教会の修道女。彼女はヨハネ3:16を愛と奉仕の行為を通じて実践することの重要性を説く際に引用し、この聖句が示す無償の愛を日々の生活に反映させることの大切さを語りました。

5,ティモシー・ケラー - 現代の神学者であり、ニューヨークのリディーマー長老教会の創設牧師。ケラーはヨハネ3:16を、神の愛と救済のメッセージがいかに個人にとって深い意味を持つかを説くために引用しました。彼は、この聖句が示す神の愛を理解することが、信仰生活において根本的な変化をもたらすと強調しています。

6,チャールズ・スポルジョン - 19世紀のイギリスのバプテスト派の牧師であり、彼の説教は今日でも多くのキリスト教徒に読まれています。スポルジョンはヨハネ3:16を「福音の核心」と呼び、神の愛と人間の救済についての深い洞察をこの聖句を通して提供しました。

これらの引用やコメントは、ヨハネ3:16が異なる時代や背景を持つ人々によってどのように受け止められ、解釈されてきたかを示しています。この聖句は、キリスト教の教えの中で最も重要な部分の一つと見なされ、神の無条件の愛と、その愛に応答する人々への永遠の命の約束を象徴しています。


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