2023年11月12日日曜日

説教 メッセージ 20231112

 聖書の言葉 マタイ 25: 1~13 (新49)

1「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 2そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」



説教「わたしはお前たちを知らない、        と言われたら」 徳弘浩隆牧師

1,油切れ

人生は、忙しいときに限って、トラブルが付きまとうと思うことが良くあります。

牧師をしていると、土曜日の夜忙しいときに限って、パソコンやプリンターの調子が悪くなると頭を抱えるときがあります。みなさんも出かけようとしたときに限って、スマホの充電が少ないということも、体験された方も多いかもしれません。予定に遅れそうなときに限って、自動車のガソリンが足りなくなりそうで、今入れるか、目的地まで走り切るか、ハラハラしながら急ぐ時もあるかもしれません。

わたしは、サンパウロで自宅の教会に帰るとき、もう少し行くと安いガソリンスタンドがあるからと思っていた時に、大きな通りの橋の上で燃料がなくなって止まってしまったことがあります。路上に止めて、やむなく、妻に車の歩道側に残ってもらって、頭を下げてもらいながら、私はできるだけ近くのガソリンスタントに走りました。ガソリンだと金属の少し高い携帯用ガソリンタンクを買って入れないといけませんが、そこはブラジルです。ほとんどすべての自動車はアルコールを入れても、どちらでも走るようになっています。サトウキビから作るバイオエタノールで環境配慮や資源節約の先進的な取り組みです。きれいなペットボトルにアルコールを入れてもらい、自動車まで走って帰り、それを入れて難を逃れたことがありました。

今日の聖書は、一番大切な時に、灯の油が切れてしまうという失敗をした女性たちのたとえ話が出てきました。一緒に神様の声を聴いていきましょう。  

2,聖書 

マタイによる福音書は28節までですが、今日は25節です。いよいよ、最後のところに差し掛かってきました。そして実は、このマタイを一緒に読んできましたが、キリスト教会のカレンダーでは、来週が一年の最後になるという季節を私たちは生きています。

年末の気分はまだしませんが、キリストの地上でのご生涯の最後のほうのところ、そして、世の終わりについてのお話が、今週と来週続きます。一年を振り返る季節に、世の終わりや自分の人生の終わりも見据えながら、大切に時を過ごすという一念の終わり方になります。

今日のたとえは、「天の国はこのようにたとえられる」とはじまります。今日も、結婚式のたとえです。10人のおとめたちが花婿を迎えに出ていくのですが、灯の油が十分準備していて無事に出迎えられた5人と、油がなくなってしまって大変困った5人の運命が分かれます。

当時の結婚式は、花婿が花嫁の家に迎えに行き、一緒に花婿の家まで戻り、そこで盛大な結婚式が催されるという形だったそうです。ですから、今日のお話は、結婚式が始まる前の、お迎えに行く花嫁の家で灯をもって出迎える花嫁の友人たちと考えられます。

そして、聖書のたとえの定番通り、花婿はキリスト、花嫁は教会と考えてよいでしょう。灯の油と、そして予備の油を準備していた賢いおとめたちは、花婿が来た時に問題がありませんでした。花婿の到来が遅れてしまっていたから予想外に脂が早くなくなってしまいました。しかし、予備の油を持っていなかったおとめたちは、分けてくれるよう他の5人に頼みますが、自分たちもぎりぎりだからと分けてもらえません。買いに行ったらどうですかといわれてしまいます。しかし、もう夜中ですからそれもかないません。花婿は家に入り、扉は閉められます。5人のおとめたちは開けて入れてくださいと頼みますが、花婿は、「私はお前たちを知らない」といわれてしまうのです。「だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日その時を知らないからだ」とキリストはそのたとえ話を締めくくります。

3,振り返り 

わたしたちはどうでしょうか?いつも目を覚ましているでしょうか?もちろん、文字通り寝ないということではなくて、信仰的に眠ってしまわないことが大切だ、と私たちはキリストの声を聴きます。

しかし、おかしなことに気が付きます。今日の10人のおとめは、みな、一度眠ってしまっていたのです。5人の賢いおとめは、頑張って寝ずにいたので失敗しなかったということではありません。彼らの運命を分けたのは、予備の油を準備して持っていたということでした。今日のキリストのたとえ話を聞いて、「私たちも、いつも完璧な信仰を持っていることが大切だから、頑張りましょう」という結論を学んでいるとしたら、それは間違いであり、不十分でしょう。私たちは、完全の信仰者であり続けることよりも、いつも予備の油を携えていることに気を配りましょう。この予備の油は、なんでしょうか?

現代社会なら、スマホの予備のバッテリーで、どこにでも持っていけるモバイルバッテリーとでもいうことになるかもしれません。

聖書のこの個所は、いろいろな風に解釈が試みられます。聖書のみ言葉がいつもそばにあるかといえるかもしれません。「聖霊の油注ぎ」などという言い回しもありますから、聖霊の助けをいつも受けているか、と振り返ることもできるかもしれません。あるいは、困ったときに自分の分を犠牲にしてでも分け与えあえる信仰の兄弟姉妹と理解することもできるかもしれません。彼らはそれがなかったから、分けてもらえなかったのだと。

4,勧め 

ここで、聖書のほかの個所を思い出すかもしれません。家の中に入りドアを閉められ、たたいても開けてもらえなかったおとめたちでしたが、聖書には「叩け、そうすれば開けてもらえるであろう」という言葉もあるのにと、がっかりするかもしれません。しかし。これに対して、キリストはこう答えるかもしれません。ヨハネの黙示録の言葉を使って。「私は扉の外でたたいてる」と。「わたしは、あなたを知らない」と知らん顔をしているのは、キリストのほうではなくて、今までの生き方や今までの罪深い自分にこもってしまっている、自分自身なのかもしれません。

 素直な気持ちで、神様に向き合いましょう。そのとき、私が扉を開けるのを待っておられる、十字架の愛のキリストが立っておられるのに出会えるのです。

 

牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -4  

徳弘先生、いろんなYou Tube動画を見ております。その中で、「ダニエル書」は予言の書、と言っている方がおられ、最近の中東問題に重ね合わせて聖書の箇所を引用しておられますが信用してもよいですか??

A:ダニエル書は確かに預言書としてとらえられていますが、謎に満ちた預言の言葉を、今の戦争の出来事と重ね合わせて、「〇〇年に世が終わり、キリストが再臨される」とかいう引用と説明には、注意しなければなりません。むしろ、危険視するべきでしょう。

そもそも預言とは、「預言」であるからです。「これは神の言葉を『預』かって、人々に告げる」という意味であって、「いついつ何が起こるという、予言」ではないからです。神から預かった「預言」の中に、「予言」も含まれるでしょうが、すべてがそうではないからです。

迫害や命の危険にある中で、時の権力者の国名や名前もあげた明確な言葉ではなくて、メタファー(隠喩)として伝えたというケースもあるでしょう。ヨハネの黙示録もそのように捉えてよいでしょう。ローマ帝国の迫害を明らかにわかるような言葉で書き記せなかったからです。

戦争や天変地異があると、いつも、終末思想が再燃して、世の終わりとか、キリストの再臨とか、いう人が現れます。

しかし、「偽キリスト」も現れるから注意せよ。と言われたキリストの言葉も思い出さねばなりません。キリストご自身、「その時はいつかは知らない、天の父のみがご存じ」といわれています。しかし、今度の日曜日の聖書日課のように、「いつその時が来てもいいように、絶えず目を覚まして信仰の歩みをするべき」ことも、教えられます。

ルターも、「たとえ明日が世の終わりであったとしても、私はリンゴの木を植える」という言葉を残したといわれています。最近の研究では彼自身の言葉ではないようだが、彼の考えはよく表れている、と理解されています。

そのように、「終末やハルマゲドン、キリストの再臨はいつだ!」という言説には注意が必要です。

人の知恵ではわからないといわれている事柄を、「私は分かった」とか「私は神に示された」と言い始めるときに、カルトが生まれるのです。過去の歴史でも何度も現れては消えしましたし、私が生まれてニュースで見たものの中でも、いくつもありました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と、私は思っています。終末やキリストの再臨に備えて、慌てて何かをするという、脅迫のようなものではなくて、今、日々生きている中で、「神を愛し、人を愛する」ということを、自ら悔い改め、そのように祈り行い、手の届くところで広げていくということが大切と思います。そんな風に生きています。


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