2023年11月5日日曜日

説教 メッセージ 20231105

聖書の言葉 マタイ 23: 1~12 (新45)

1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。



説教「天の国の席順」 徳弘浩隆牧師

1, どこに座るか?

一昨日の11月3日、東海教区伝道セミナーがあり、名古屋めぐみ教会に行ってきました。毎月、Zoomを使って教区の牧師たちが順に担当する公開聖書セミナーを続けましたが、その総集編としてこの機会を企画しました。テーマは「教会」でした。私も聖書セミナーの講義を担当しましたので、一昨日のパネルディスカッションにも登壇することになりました。

会場につくと教会の前にテーブルと椅子が準備され、数人座るようになっています。さて、「どこに座ろうか」と近づくと、司会の牧師先生から、「徳弘先生はどうぞ、やはり真ん中に座ってください」と勧められました。普段ならよく遠慮するのですが、今回は仕方ないと思い、正面真ん中に座りました。今は教区長をしていますので、権限はさほどありませんが色々な責任もあります。このセミナーも最初に講座を担当し、いろんな専門や関心の範囲から自説を発表してきた牧師たちの一見多少違う見解も、対立ではなくてバラエティーとして一緒に学び、何とかまとめる責任もあったからです。

おかげさまで、それぞれ対話やコメントもしあい、会場からも質問や意見も共有され、よくある偉い先生の話を一方的に聞くセミナーとは一味違って、良い学びと交流になったと感謝しています。

さて、今日の聖書のお話は、そんな「どこに座るか」という事をキリストは語られました。しきたりやマナーの勧めでしょうか?一緒に聴いてきましょう。 

2,聖書 

ここのところ数週間、無理な質問でイエス様を困らせてやろう、失墜させてやろうという、当時の「偉い」人たちからの質問とその問答が読まれてきました。しかし、どの企てもうまくいかず、彼らは黙り込んで、去るしかありませんでした。

それは、だれが一番知識を持っているかとか、表面上何を一生懸命にしているかとかいう競争ではなかったからです。イエス様は何度も、知識や権力や表面の行いだけの当時の宗教指導者をやり込めていかれました。イエス様は、その奥の、本当の神様のお気持ち、聖書に規定された物事の真意を説き、またどう答えても答えにくい無理な質問にも知恵をもって切り替えしていかれました。

今日はそれらの末に、ついに、「律法学者やファリサイ派の人々を、聖書をよく知り自分たちが聖書そのもののようにふるまい、人々に指示している」、と評価されました。しかし同時に、「言うだけで何も実行していないから、見習ってはいけない」と、残念な評価もされたのです。

そのうえで、彼らを、「外見で権威付けようとしたり、持ち上げられるのを好むのだ」と、その愚かさを指摘されます。だから、一番偉いものは仕えるものになりなさい」と群衆と弟子たちに教えました。それは、やがて向かうご自身の十字架への道をも見つめる言葉でした。権力ではなくて、驚くべき予想外の十字架の死という形で、神を愛し人を愛すること、それ以上に敵をも愛するという事を示されることになっていくのです。

3,振り返り 

わたしたちはどうでしょうか?座る場所や順番を、「席次」とも言います。学生時代は、成績の順番も「席次」と言われ、廊下に席次表が貼り出されてドキドキしたなんて言う思い出がある方もおられるでしょう。

「教会建築は、その教会の神学が現れる」と、一昨日のセミナーでもある牧師が力説していました。私たちの教会は、どういう具合になっているでしょうか?建物自身にどんなメッセージがあるでしょうか。私たちの教会の礼拝堂は、説教台が中央の正面にあるのではなくて、そこには聖卓と十字架があり、聖書朗読台も説教台もその脇にあるというのが大切なところです。もし中央の正面にあるなら、まるで牧師自身の個人の生き方やその知識や人生への指導そのものが中心になりすぎてしまい、下手をしたら牧師への個人崇拝も起こってしまうからです。

私たちが見上げる一番大切なものは、復活教会では正面の壁にある十字架のステンドグラス。そこから光が差し込み聖壇と十字架が、高蔵寺教会では正面の十字架と聖卓があります。この聖卓はキリストが最後の晩餐をされた食卓を記念するものです。そして、今日の復活教会は、そのキリストの十字架を通しての救いにあずかるための洗礼を受ける洗礼盤があります。そして、すでに天に送った人々を思い出す写真が。そして私たち一人一人という順になっています。それが、私たちの「席次」という事になるでしょう。

今日は、その救いの手の中に、この世を生きている者もすでに死んでいる者も、納めておられる神様を一緒に見上げています。また、その救いにあずかるために、この世を生きているさなかで、一度古い自分が死に、新しい自分がキリストとともに生まれる洗礼式を考えるという幸いな機会も与えられています。

4,勧め 

今日は一緒に、これまでの自分の人生を、そして先に天に送った方々の人生を振り返りましょう。

ブラジルでは、最近、ご高齢者の世代を「老後」と言わない言い方があり、驚き、考えさせられました。それは、Terceira Idade(テルセイラ・イダージ)とか、Melhor Idade(メリョール・イダージ)といいます。それぞれ、「第3の世代」「より良い年齢」という意味です。愛され楽しみ将来に向けて勉強したりするこどもの時期、大人になって社会生活や子育てもする時期、そしてそれらから解放されのんびりと自分を見つめながら楽しみもしながら生きる時期。その3番目で、より良い人生だ、というブラジルらしい肯定的な楽天的な言葉だと、思わされました。

皆さん、それぞれ、どんな時期を、どんな気持ちで生きていますか?洗礼を受けて、一度今までの人生とお別れして生まれ変わりましたか?そして、第4の人生ともいえるかもしれない、この世のいのちを終えた後の天国での永遠のいのちへと、しっかりと進んでいるでしょうか?

洗礼、そして永遠の命、天国、そんなものを一緒に見上げながら、神様と一緒に生きていきましょう。神様はいつも一緒にいて、それぞれの人生の時期に応じて、必要なことをされ、助け、守り、導いてくださいます。神様とともに、教会という新しい大きな家族とともに、生きていきませんか?神様の祝福をお祈りいたします。


 


牧師コラム・ 「LineでのQ&A」 -3  

イスラエルとパレスチナの間で戦争が始まり混迷を深めています。どうしてこの地の紛争が絶えないのか。今日も先週の続きで、Lineでの教会メンバーからの質問とお答えを掲載します。一緒に考えてみませんか?

A:先週の話の最後は、報道に偏りはないのかという話でしたが、続きで、4枚の写真を見てもらいましょう。





上の二枚は、私が2000年に「イスラエル」に行った時のもの。ユダヤ人の領域からベツレヘムなどパレスチナ自治区に入るときは、イスラエル支持の日本人ガイドさんがバスを降りるときに「ここから怖いところだから気を付けてください」と何度も注意をしてくれました。写真は、①聖書ゆかりの地を案内してもらう途中でバスが寄ったレストランの外で出会ったイスラエル兵に声をかけてみて談笑し握手、帽子をかぶせてもらって一緒に写真ととりました。頼もしく感じました。②嘆きの壁に行った時、上のイスラム教の黄金ドームから投石騒ぎの衝突があり、海外のマスコミが詰めかけ、イスラム教のパレスチナ人は怖いと思い、投石の中逃げ、怖い思いをしました。

下の二枚は2006年に「パレスチナ自治区」のベツレヘムに泊まり、そこからパレスチナ人の旅行ガイドさんに案内してもらい、ルーテル教会が支援している学校や病院のほか、前回と同じ聖書ゆかりの地も訪ねました。③ベツレヘムルーテル教会の牧師が、イスラエル側の砲撃で穴が開いたところはそのまま残していると、見せてくれた教会併設の教育センターのPC教室の床。④パレスチナ自治区からユダヤ人の地域に入るときには高い塀と厳しい検問所があり、親子でも引き離されるパレスチナ人を見、我々も厳しいパスポートチェックを順に受けました。この時はイスラエル兵や検問所の人はとても怖いと感じました。

このように、どちらの側でその国にいるかという事で、全く違う印象を受けたのです。視点とバランスが大切ですね。

(続)


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