説教 「今日わたしと一緒に楽園にいる」 徳弘浩隆牧師
1,「 一緒に楽園にいる…」
今日は、いよいよ、教会のカレンダーでは一年の最後の日になりました。週報をご覧になってお分かりのように、「聖霊降臨後最終主日」となっています。また、「永遠の王キリスト」を祝う主日でもあり、そのことも記されています。今日の説教題でもある「私と一緒に楽園にいる」という言葉が心に残ります。
少し不謹慎ですが、私は二つのことを思い出します。一つは大学生の時大阪の豊中市に住んでいた時のことです。阪急電車に乗ってアパートのある駅から大学のある駅に行くとき、「三国(みくに)」という駅を通りました。私はここを通るときにいつも、主の祈りを思い出しました。「御国(みくに)が来ますように」という祈りの言葉です。もちろん漢字も意味も違いますが、苦笑いしながら、主の祈りを祈ったものです。ちなみに、そのまま地下鉄に乗り換えると、谷町四丁目駅では、「鐘の鳴るチャペルのあるホテル、ホテル・ザ・ルーテルは次でお降りください」という宣伝のアナウンスを聞いていました。そのころはまだルーテル教会には通っていませんでした。
さて、次は「楽園にいる」というイエス様の言葉です。ブラジルにいる頃の話ですが、ポルトガル語で楽園はParaiso(パライゾ)といいます。英語で言えばパラダイスのことです。実は、日系ルーテル教会の隣の地下鉄駅がこの、パライゾという駅でした。いつもここを通るときに、イエス様の今日の言葉を思い出しました。ポルトガル語の聖書は「あなたは今日私と一緒にパライゾにいる」となっていて、イエス様とパライゾ駅で待ち合わせしているようにも、読めるからです。苦笑いをしながら、「キリスト共に、パライゾ駅でも、楽園にでも、いることができたらいいなぁ」と思いました。
さて、この聖書の言葉は、イエス様が十字架上で息を引き取られる直前の出来事です。これは、3月頃のレント(四旬節)のころ読まれる場所でもあります。ですから、少し季節外れの感もあるかもしれません。
しかし、いかにも、今日のために大切な場所ともいえるでしょう。どんな意味と、今生きている私に、どんなメッセージがあるのでしょうか?一緒に聞いていきましょう。
2,聖書
キーワードは次の二つで、それを見るとわかります。
1) ひとつは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」ということば。
2) そしてもう一つは、一緒に十字架にかかっていた犯罪者二人の言葉と、イエス様のお応え、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」 という事になるでしょう。
イエス様が裏切られ、人々と罪を背負って十字架にかかられたときの問答です。
ユダヤの人々はメシア、つまり油注がれた、王様ともいえる「救い主」を待っていました。それを信じてイエス様に従った人々が増えてきました。しかしその中には、力と権威、武力すらある力強い「王様」を期待し、抑圧するローマ帝国からの独立も願う人々もいました。しかし、イエス様の教えは、力と財力をもって、敵対勢力を武力で打ち負かして君臨する王ではありませんでした。反対に、弱い者や貧しいもの、絶望するものに寄り添ったからです。力による屈服の王様ではなくて、愛とゆるし、敵さえも愛するという事によって、自分の罪深さを思い知らされ、謙虚になるという、この世の常識とは全く逆の王様の姿だったのです。
今日取り上げた聖書からの一つ目の言葉は、ユダヤの議員たちが、その神の教えを理解できずに、期待外れだったことで、あざ笑う気持ちで、言った言葉でした。「お前が王うなら、自分を救え」と。しかし、「イエス様は、王でした」というのが今日の「永遠の王キリスト」を祝う主日の一つのテーマでもあるのです。それは、力による屈服と支配ではなくて、神の愛による悔い改めを通して自主的に従ってきて、他者にも愛で仕える人々が占める国、そんな天の楽園・神の国の王様なのだという事です。去年の今頃のアドベントから始まった一年で、イエス様のご生涯や言葉を学びながら一年を過ごして、その最後の日に、神様の救いのご計画が実現して、脅しと力によるこの世に国や王様ではなくて、本当の神の愛による国と王様の出来事が達成したという、一年の締めくくりでもあります。
さて、どうしたら、そのゆるしと救いをいただいて、神の国に入れていただくことができるのでしょうか? それが、今日取り上げた二つ目の言葉に至るやり取りから学ぶことができる、今日のメッセージです。
人々の罪を背負って十字架にかけられるイエス様の右と左に、二人の犯罪者が十字架につけられていました。彼らの言葉はこうでした。一人は、同じように、「お前はメシアなら、自分自身と、我々を救ってみろ」というのです。先ほどの議員たちのあざけりは、「自分を救ってみろ」でしたが、この犯罪者はそれに「この自分をも救ってくれよ」と付け足しています。しかし、もう一人の犯罪者は違いました。「何を言っているんだ」という具合に、「この人は何も悪いことをしていないんだ。」とたしなめ、イエス様に対して「あなたの御国においでになるときに、私を思い出してください」と言ったのです。
ここに、死ぬ間際の、ぎりぎりの時に、神様のみこころを知り、自分の罪の当然の報いの自分の十字架の死を受け入れ、イエス様にあわれみを願った一人の人の、救われていく出来事が起こったのでした。
3,振り返り
一年ももう終わります。家庭で、社会で、それぞれ一年過ごしてきました。また、教会では、一年のサイクルで一緒に神様と過ごしてきた私たちです。どんな終わり方をしているでしょうか?
最後まで、不満だらけですか?「神様に期待し、祈ってきた。奉仕もそれなりにやってきた。でも、思いどおりじゃなかった」と期待外れや、自分がうまくやれなかったという後悔などもあるかもしれません。
でも、まだ今週一週間あります。自分の罪のゆえに十字架につけられた人が、イエス様を責めます。しかし、もう一人は、それをたしなめてイエス様に憐みを請いました。最後の瞬間でした。私は、どちらでしょうか?
神様を、または、運命を恨み、それのせいにして、不満ばかり言っている自分がいるかもしれません。思い通りにいかなくて、失敗に疲れて、元気がなくて、何ももう言わない自分がいるかもしれません。
でも、今日の聖書は伝えています。人生の最後の瞬間にでも、キリストを受け入れて、赦し救われて、神の御国、楽園に入れていただく恵みのチャンスを神様は約束されているという事を。
4,勧め
大阪の三国(みくに)と、サンパウロのパライゾという駅の名前で、苦笑いをし、ふと、祈らされていたという私の話から始まりましたが、神様は、「御国」に、そして「楽園」に、ともにいることを約束されていました。
それには、この世の権力や力という事ではなくて、私も、愛とゆるしの気持ちに立つときに、約束されている出来事なのです。それを、十字架の死をもって現わしてくださった方がイエス・キリストでした。そのとき、安心と平安が来ます。私の心に、神の国が始まるのです。一緒に生きていきましょう。そんな神様とともに。
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