聖書の言葉
ルカ4:21~30 (新108)
4:21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
使徒言行録6章1節-7節
ステファノたち七人の選出
1そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。 2そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。 3それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。 4わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 5一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、 6使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
7こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。
説教「驚きと、疑い」徳弘浩隆牧師
1、 表裏一体
今日の聖書の言葉は大変興味深い言葉があります。ルカの4章22節-23節です。素晴らしいイエス様の教えの言葉ではなくて、人々の反応を伝えた言葉です。それはこうでした。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」というものです。
人々はイエス様の姿、教えに驚きました。その次が大切なところです。「だから、彼らはすべてを捨てて従った。みんな一つになって教会はますます成長していった」と続かないのです。もちろん、この段階では「教会」というのはありませんが、今の私たちの姿にも当てはめながら読み、考えると、そんな流れではなかった、ということが印象的です。
実際、「人々はイエス様の姿、教えに驚きました。」の続きはどうだったのでしょうか?その続きはこんな具合でした。「なんだ、この人はヨセフの子ではないか!どうしてこんなことが起こるんだ。話は立派で素晴らしいけれど、この人についていく気はしないねぇ。だって、昔から知っているヨセフの子だもん」という具合でした。その続きは、「すべてを捨ててこの人に従い、そのグループはますます成長し広がっていきました」という、即ハッピーエンドではなかったのです。
「問題発生→格闘や疑い→素晴らしい解決策→解決」という公式ではなくて、「問題発生→格闘や疑い→拒否→問題継続」ということでした。
毎回ハッピーエンドで解決する続き物の刑事ドラマとかヒーローものに慣れてきた私たちは、戸惑います。そういえば、私たちの人生も、いつもハッピーエンドの物語の続き物でもありません。ハッピーなこともいくつもありますが、なかなか解決しない事、厄介なこと、同じ考えの仲間でもなかなか理解しあえない事、むつかしいことも抱えながら生きています。
今日の聖書から、私たちは何を学び、聞き取ることが必要でしょうか?見ていきましょう。
2,聖書
実は先週の聖書日課と、今日の聖書日課は一部分が重なっています。それは4章21節。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』」です。
先週学んだように、イザヤの預言が実現し、いよいよ、救い主、メシア、キリストが世に送られるという、神の言葉が実現したのです。神様は、約束を果たされました。しかし、そのあとが大切です。それは、それを見た、聞いた、私たちの、反応や生き方が問題なのです。
今日の彼らは、「すべてを捨てて従い、人々は一つになって助け合い、その群れは大きくなっていた」ではないからです。人々は、キリスト到来を予感し喜びましたが、彼らの目はイエスという人に過ぎなかったのです。それは、神の言葉を聞いて喜び感心しながらも、人間の目で自分や人や現実問題を見続ける自分と同じかもしれません。その時、そこには、キリストの救いと解決の技は起こりません。
先週も学んだように、神の呼びかけを聞き、悔い改めで神に立ち戻り、自分の生き方を変えていくことが大切なのでした。今日の聖書は、イエス様の故郷では神の言葉や働きが受け入れられず、拒否迫害され、そこでは実が実りませんでした。そして早速他の地方、そして異邦人に広がっていくことになっていきました。
3,振り返り
さてこの言葉は、今日聖書を読んでいる私たちには、どんな意味を持って呼びかけているでしょうか?
特に今日は高蔵寺教会では今日会総会です。浜名教会は先々週、復活教会では先週でした。
神の言葉を聞き驚きをもって感心している私たちですが、その続きのストーリーはどうなっているでしょうか?それを確認し、感謝し、また悔い改めもして、軌道修正する、新しい計画を立てる、それが、教会の総会の役割でもあります。
今年の教会としての主題成句と主題は、使徒言行録6章から選ばれ提案され、二教会では承認されました。少しそこに、今日の答えのもう一つを探していきましょう。
初代教会は迫害にもめげず、人々はキリストに従い、共同生活さえしていました。そこでは素晴らしい共同体ができて、ますます神の言葉が広がっていきましたが、問題がくすぶり、表面化しました。そんな場所がこの使徒言行録6章です。
多くのユダヤ人が待っていたメシアとしてイエス様を受け入れ、従いました。しかし、ユダヤ人は各地に散らされていたので、この共同体には、ヘブライ語を話すユダヤ人だけでなくて、ギリシャ語を話すユダヤ人たちもいました。彼らは、それぞれ、待ち望んでいた人、ヘブライ語ではメシア、ギリシャ語ではキリストに出会い、喜んで文字通りすべてを捨てて従い、共同生活をしていたのです。
しかしそこで起こった問題は、いかにも現実的な生活の出来事でした。彼らは話す言葉が違い、多少生活様式や文化も違っていたでしょう。小さないざこざや、衝突もあったのです。そして、共同生活の中での食料などの配給が違うと、もめ始めてしまいます。そこで、使徒たちはそれら現実的な事柄に調整や事務仕事に時間を割くのはよくないとして、それにあたる人を選びました。「例と知恵に満ちた評判の良い人」を7人選んだのです。彼らに手を置いて祈り、この共同体は新しい在り方で物事にあたっていくことになりました。使徒たちは、神の言葉の働きに集中していきました。すると、問題は解決し、この時点でのハッピーエンドに近づいていきました。「そうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」のです。
4,勧め
今日の福音書の出来事、そして数年後の使徒言行録の出来事は、今の私たちの教会の出来事でもあります。
素晴らしい神の言葉に驚きましたが従っていけなかった「人間の目」だけを持っていた故郷の人々。しかし、イエス様の働きと十字架と復活の後、不思議な形で本当に神の言葉が実現し、キリストは人々に受け入れられました。迫害の中でもすべてを捨てて従ったのです。しかしそこでも起きた問題。それを解決するために、使徒と執事、今でいえば、牧師と信徒役員の働きが整えられていく、つまり、教会が教会として整えられ、成長させられていく様を見ることになりました。
私たちの教会も、いろんな文化や考えの違いもある人間の集まりです。使徒言行録のように、言葉さえ違う外国人の方も一緒に教会に集まり、教会形成をする時代に日本もなっています。そこで、自分の意見や過去からの考えだけに固執し、他の考えを理解せず、対立分裂してはなりません。神の言葉にもう一度立ち返り、相互理解と、神様が示す解決と成長のための新しい道を、仕組みを、見つけ出し実行に移していくことが大切なのです。
今までの古い革袋にではなく、私たち自身が新しい革袋にされ、神の言葉に従い、人々に神の言葉を伝え、奉仕、伝道していく教会であり続けましょう。
それこそが、今の社会に、この地に必要な神様の働きなのです。一緒に歩いていきましょう。
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