聖書の言葉 マルコ7: 1~8, 14~15, 21~23 (新74)
7: 1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。7人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』 8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」」
説教「口は心の門、出口か入口か?」徳弘浩隆牧師
1、 出口と入口…
今から12年ほど前でしょうか、ブラジルに行って3年たった時に初めて一時帰国しました。その時、サンパウロの教会を助け支えてくれていた一人の日系二世の方も一緒に来られました。私より一回り年上の彼女は日本語はだいぶ上手になりましたが、漢字の読み書きは大変苦手でした。妻と3人で各地の教会にも呼んでいただき、報告会や交流会もしていただきました。北海道から九州までいろんなところを一緒に旅をし、教会も訪ね、少しの観光もしました。そんな彼女がある日こう言いました。「出口さんっていう人、結構多いんですね」。「えっ?」と不思議に思い、一緒に見たお店にある表札には「出口」と書かれているのを見て、慌てて説明し、3人で大笑いしたことがあります。彼女はブラジルの日系人の友達で、「出口さん」という人がいて、漢字も覚えていたのですが、日本の街を歩くときにいくつもそれを見たというのでした。
もうみなさんお分かりの通り、彼女が見た「出口」という「表札」のほとんどは、「表札」ではなくて、「入口」「出口」のように表示しているものだったのです。もちろん、本当の表札もあったと思います。「出口」さんという名前は結構おられるそうですしね。調べると、伊勢神宮の関係のお仕事の人に与えられた苗字が多いそうです。
今日の聖書は、「手を洗う」かどうかということが論争になり、そこから「口」から入るものと出るもの、というキリストの言葉が語られています。口の入り口としての働きか、出口としての働きか、なにが神様や人との間で大切かという話になっていきます。 聖書から今日の言葉を、聞いていきましょう。
2,聖書
聖書はしばらく「生ける神のパンとしてのキリスト」にかかわる話が続き、ひと段落したと思いますが、きょうも食べ物の話でもあります。
ファリサイ派の人々はイエス様の話やなさることに感心していて、エルサレムからわざわざ様子を見に来ていました。しかし、その弟子たちの生きざまにつまずき、批判的になり、イエス様に尋ねました。「あなたの弟子たちは食事の前に手を洗っていないのはなぜですか?」と。それに対してイエス様は、「確かにその通りだ。もっと衛生管理や行儀のよさを教えることにしよう」と素直にお答えになりませんでした。むしろ、旧約聖書の言葉を引いてきて、反論しました。イザヤ書の29章13節にこうあると。「口先では神を敬うが、心は離れている。」という趣旨で、ファリサイ派や律法学者に対して、神の掟を捨てて人間の言い伝えを固く守っていると、批判されたのです。
そして、こう結論付けます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と。
3,振り返り
この聖書の話をどう私たちは読むべきでしょうか?下手をすると、弟子や子供のぶしつけを批判されて、逆切れしている人に見えなくもありません。イエス様は、なぜそんな風に反論され、相手を批判したのでしょうか?そこが大切なところです。
手を洗わないで食事をするというのは、食前に手を洗うという今の私たちの衛生上の問題を指しているのではありません。ユダヤ教でいう、「神が汚れていないから食べてよい」と許された食物を、神が定める方法で祈り手を清めていただく、という宗教的な掟に沿っていたかどうかということでした。
私が岐阜にいるときに、買い物の行き来の途中で気になっている建物があり、思い切って妻と一緒に訪ねたことがあります。そのあと、皆さんも知っているインドネシアの姉妹もつれて建物の前まで行って、一緒に挨拶もしました。それは、岐阜大学のそばに建てられた綺麗なイスラム教のモスクでした。「誰でも見学できますからお声掛けください」という日本語の掲示もあったので、声かけをして、歓迎して入れてもらい、中を案内していただきました。入口は男性と女性に分かれていて、入ったらすぐに廊下わきに部屋がありました。そこには私たちの見慣れた銭湯の椅子と蛇口のようなものが並んでいました。牧師のような立場のイマームは説明してくれました。「ここで、みんな規定に沿って左右の腕を肘まで、そして手を、それから口や鼻を注ぎます。そのあと、礼拝堂に入っていくんですよ」と。そのときの手や腕の回し方の作法も見せて教えてくれました。お祈りの時間や、メッカの方向、そして教えを簡単に説明してくれ、本もいくつかくださり、感謝してお別れしました。とても良い勉強と交流でしたもちろん、「教会の牧師ですが、入ってもいいものでしょうか?」と最初に挨拶をして、歓迎してもらいました。
さて、ユダヤ教にもこのような掟があり、歴史の中でそれがさらに細かく規定されていたというのが、今日のイエス様の論争のもとにあったということが大切です。
ファリサイ派や律法学者は、本名人たちでした。この神の掟に、歴史の中でくわえられた細かな規定を知り尽くした律法学者、そしてそれを厳格に守っていて守らない人を小ばかにしていたファリサイ派の人たちだったのです。それに対して、口先で神を敬って人々に重荷を押し付けるよりも、神様の本当の気持ちを説明し、人々を自由にしたのがイエス様だったのです。
厳格すぎる掟や作法や、汚れた食べ物とそうでないものという規定で縛られて、口から入るものを気遣うよりも、口から出るもの、つまり言葉を大切にしなさい、ということです。言葉は人を助けもしますが苦しめもします。愛しもしますが、裁きもします。元気づけ生き返らせもしますが、つき放ち命さえ奪います。
私たちはどんな生き方をしているでしょうか?
4,勧め
決まりごとはなにもかも放棄して思うように生きたらよいということではありません。決まりごとに縛られ、人を裁き、他者を排除し、対話や交流をせず、自分の考えが何よりも絶対的に正しいと、頑張りすぎるときに、対立や戦争も起こります。何よりも大切なのは、神様の愛と、人の不完全さを認め、神を愛し人を愛する、平和な生き方、それを神様も求め願っておられるということです。
出口と入り口は、別々ではなくて、同じ口の反対方向のものです。私たちの用い方で、生き方は変わります。口は食物の入り口でもありますが、口は心の門でもあります。対話と、愛で、多くの人々ともに平和に生きていく社会を作っていきましょう。
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