2023年10月8日日曜日

説教・メッセージ 20231008

聖書の言葉 

マタイ(Mt.)21: 33~46(新42) 

33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。 35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。 36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。 37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。 38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』 39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。 

40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」 41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」 42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、 46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

説教「石で砕かれる命、石で砕かれる心」徳弘牧師

1,ブドウ園での惨劇…

先々週、先週に続いて、ブドウ園で話が続きます。ブドウ園は日本ではあまり各地でのなじみはなくピンときませんが、ユダヤの地方では旧約聖書の時代から何度も出てくる、なじみの風景であったようです。日本だと、田んぼでの稲刈りや、寒い地方での麦畑での麦踏という状況のたとえだったとしたら、もうすこしピンとくる風景かもしれません。

先々週はブドウ畑で働く人の給料の話。先週は、ブドウ畑で働くかどうかという二人の兄弟の話でした。そして今日は、とても「血なまぐさい話」で驚かされます。今日の説教題を考えるときに、最初は「葡萄園での惨劇」と書いてみましたが、ショッキングすぎる題名になるので思いとどまりました。これではまるで、TV番組のサスペンス劇場のようでもあります。

キリストは、どうしてそんな血なまぐさい話をされたのでしょうか?今日のイエス様のたとえ話は、どんなメッセージを持っているでしょうか。

2,聖書 

ブドウ園のたとえは、今日の旧約聖書のイザヤ書にも出てきます。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」と、心を込めて準備したのに、期待外れの結果だったことを嘆き、問いかけます。「わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。」と。

神は「もういい!」と言わんばかりに、ブドウ園を荒れるままに任せ、雨も降るな!と言い捨てます。

このイザヤ書の神の言葉は、守り導いてきたにもかかわらず、また不信仰に陥り神を裏切っていったユダの民に対する叱責でした。そしてやがてイザヤが預言した通りに、ユダの国はバビロンに滅ぼされ、異国に捕囚として引かれていくことになります。

今日のキリストのたとえは、おそらくもちろんこんな旧約の預言と出来事を下敷きにしながら、わかりやすく人々に教えています。

「もう一つのたとえを聞きなさい」という言葉で始まる今日のお話は、先週読まれた二人の兄弟のたとえのすぐ後に置かれています。

もっとわかりやすいたとえで、主人である神様と、ブドウ園はイスラエルの民、農夫たちはその指導者たちで、そこに送られた僕たちは神様が送った預言者たちでしょう。一度目に送った預言者の言葉は聞かず逆に殺され、二度目に送った預言者の言葉も聞かずもっとひどい仕打ちを受けます。最後に、息子なら敬ってくれると送ったのですが、その息子さえ殺されてしまうのです。それが、神への不信仰と反逆の歴史を繰り返してきたイスラエルの姿と、今起こっていて、これから迎えることになる、キリストご自身の姿を現しています。祭司長やファリサイ派の人たちは、さすがに今回は自分たちのことを非難されているのだと気付きました。それは、ここまでに、「朝から働くように長いこと神様に仕えているのに、罪深い人たちが後からやってきて同じ救いにあずかるのを嫉妬した姿」であり、「はい、おっしゃる通りにします」と言いながら何もしないでいると、たとえで批判された姿そのものが、彼らだったのです。

3,振り返り 

ここで先週の高蔵寺教会の聖書研究会で読んだエフェソ書の解説を思い出します。その部分をさらに簡単にまとめると、こうなります。神様のご計画は聖書では大きく三つに分けて述べられている、とあります。

1) 創世記で、神様が世界を造り人間はその守り手として造られたのに、神の世界を自分のものにし、自分が神になろうとした。それが罪の起源。

2) その直後から旧約聖書の最後まで、神様がアブラハムという人から興した一つの民族・イスラエルを通して、約束を結び、回復していくことでしたが、何度も失敗をしていったこと。

3) 最終的にはイエス・キリストを通して、イスラエル民族・ユダヤ教以外の異邦人も含めて、「新しいイスラエル」が興されて、神との関係、人と人の関係、そして神が造られた世界との関係を回復することになっていく。(まだ途上で課題山積ですが)。という事でした。

今日のキリストのたとえは、こうして振り返る、イスラエルの失敗をブドウ畑のたとえで思い返しながら、目の前の祭司長や律法学者たちも同様に失敗に陥っていることを指摘し、批判したのでした。

しかし、その批判だけで今日のキリストの言葉は終わっていません。「神の独り子は、敬われず、死に追いやられる」というたとえで、キリストがこれから進む十字架の道を預言します。そして、その惨劇ともいえる出来事で、全く新しい、人々の予想外の事が起こり始めていくという事も、示されたのです。

それは、詩篇118編の言葉を引用して「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」と言われた言葉の意味を知るときに、理解できます。

石で主人の一人息子を殺し、いよいよ、ブドウ園を自分のものにしようとする罪人の企ては、結局は、その石の上に落ちると打ち砕かれ、石が上に落ちれば押しつぶされるという事が起こるとキリストは続けます。

つまり、神の子を殺した罪人たちが、神の世界を自分のものにしようとしたとしても、撃ち殺したつもりの神の子こそ、生ける石で、その石は罪びとを上から押しつぶし、上に落ちれば罪人を砕く事になるのです。

これが、傲慢で、神を神ともしない自己中心で信仰がなく、人を人とも見ない愛のない、罪深い生き方をしていた罪人の姿です。神さえ無視し、殺したつもりでも、逆にそれによって、自分が罪ゆえの呵責と悔い改めに導かれることになり、結局は、消し去ろうとした神の元に立ち返ることになるのです。それが、人の目には不思議な、神に勝ったかと思っていた罪びとが、実は、自分が負けていたという事になるのでした。

4,勧め 

 私の姿はどうでしょうか?思い当たる節がないでしょうか?これを今日私たちは問われています。わたしは、あります。神を無視し、自分で傲慢に生き、または、それができずに自己嫌悪をで生きていた頃もあります。神様から逃げてみても、消し去ろうとしても、結局は、自分の罪深さ、傲慢さ、不完全さに打ちのめされて、神様の前に座り込むこともあります。しかし、その時こそが、救いのチャンスなのです。この頑な心が、打ち砕かれるように、思い切り失敗してもいいかもしれません。キリストはそれを承知で、十字架の道を行かれたのです。

いさかいや、競争を、または落ち込んだり、へこたれたりしているうちは、まだ本当に砕かれたキリスト者になれていないと、何度も打ち砕かれる道を神様は準備されるかもしれません。

素直になって、神様にお任せして、安心して生きていく道を、一緒に歩きましょう。神様とともに。

 


牧師コラム・ 言葉雑学考 「ミイラ取りがミイラに」

 「石で打ち砕いたはずの人が、実はその石で心を打ち砕かれた」というのが、今日の聖書の話でした。思い出すのは、「ミイラ取りがミイラになった」という言葉です。ミイラを取りに行った人が、迷い込んで出られず、自分がミイラになってしまうという、なんとも残念なこと。説得しに行ったのに、逆に説得されたりすることを例えていう言葉ですね。

実はミイラという言葉は、もともとは、「没薬」のコトでした。マタイの福音書ででてくる、イエス様がお生まれになったときに、東方の博士たちが捧げた贈り物の、「黄金、没薬、乳香」の「没薬」です。もとは、使者の体に詰めて、腐らないようにした特別の薬のことでした。死んでも、体は腐敗せず、まるで生きたような姿を保つ薬。そしてそれによって保存された遺体、つまり今でいうミイラのことも表すようになりました。

英語ではMummyでラテン語のmumiaに由来していますが、日本語の「ミイラ」は16-17世紀に渡来したポルトガル人から採り入れた言葉の一つで、ポルトガル語: mirra は元来「没薬」を意味していた、とあります。

ミイラ取りがミイラになったように、神を神とも思わない罪人の犯した大きな罪で、逆に自分が改心させられ、生まれ変わらされ、本当の意味で生きたものにされる。そんなミイラ取りになるのなら、いいのかもしれませんね。


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