聖書の言葉 1マルコ13: 1~ 8 (新88)
13:1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
説教「終わりは 何かの始まり」徳弘浩隆牧師
1、 猛烈残暑も終わり…
「暑い暑いといっていたけれど、ずいぶん肌寒くなりましたねぇ」という季節の挨拶が普通でしたけれど、ここ数年はそういう訳でもありません。猛烈な残暑が続いていましたが、急に寒くなり、そしてまた夏日という具合で、心も体も準備ができていない気温の変化が、ある意味普通になってきました。忙しい毎日で衣替えも間に合わず、何を着ようかと迷う事もあります。そして、私は風邪をひいてしまいました。
こんな季節感が怪しくなってきた、地球温暖化と激しい気候変動の時代と同様、世の中の移り変わりも激しく、何がいつ起こるか予測しにくくなっているといえるかもしれません。「もう、世の終わりだ」と従来の地球環境の終わりや、いわゆる「終末」の話を持ち出して、本当に世の中の終わりを主張する人や宗教も多くなります。
そんな中、今日の聖書の言葉も、「世の終わり」という言葉が出てきます。世の混乱や偽キリスト、戦争の噂、そして地震や飢饉についてもキリストは話されました。
これは、なにか隠れた意味のある恐ろしい「予言」なのでしょうか? 一緒に聖書から聞いていきましょう。
2,聖書
聖書は先週の続きです。少し復習のつもりで振り返りましょう。11章でイエス様一行が意を決してエルサレムに入って行かれます。大歓迎を受けます。その後、神殿で商人を追い出します。神の家を商売の家にしてはならないというのです。その大騒ぎの後、キリストは、エルサレムのいろいろな権力者たちと対峙することになります。祭司長、律法学者、長老たち、そしてサドカイ派やファリサイ派という宗教的にも、政治的にも権威がある人たちから、問答を持ち掛けられます。その流れの中で、先週の聖書の個所、やもめの献金になっていきました。大勢のお金持ちがたくさんの献金をするのと対照的に、貧しくつつましく生きている一人の女性が、神殿の賽銭箱に、周りの目も気にせず、「はした金」とも言える一番小さな硬貨を入れている姿でした。キリストは、「彼女は誰よりもたくさん入れたのだ」と称賛しました。神様にすべてをゆだねている生き方をほめたのでした。
そんなことの後、「神殿の境内を出て行かれる時」に今日の聖書の出来事が起こりました。
立派な建物を見て弟子の一人が言いました。「とってもきれいな石の建物ですねぇ!」と。しかしイエス様の応えは驚くような言葉でした。「これらの大きな建物か。これらは全て崩れてしまうだろう」と。そっけない、そして不吉な言葉でした。
それに続いて、いったん神殿から出たのでしょう。今度はエルサレムの城壁の外のオリーブ山から神殿の方を向いて座っているときに、4人の弟子たちは心配になったのでしょう、イエス様に思い切ってひそかに尋ねます。「そんなことはいつ起こるんですか?その時にはどんな兆しがあるんですか?」と。それに対して「偽キリストがたくさん現れ惑わし、戦争の噂を聞くがまだ終わりではない。戦争や地震、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりなのだ」と言われます。いわゆる、終末の預言と言われているいくつかの話の始まりです。
その後、イエス様は捕えられて十字架にかけられていきますが、一年の最後の週が近づく今、その言葉を毎年読むという事になっています。
3,振り返り
さて、私たちは、この聖書を読んで何を学ぶべきでしょうか?今の世の中の動きを見て、「今こそ、その時が来るぞ!」と判断をして人々に呼びかけることでしょうか?ある面そうです。しかし、間違えてはいけないとも言えます。
このイエス様のお話の後、神殿は実際に崩されました。紀元70年の事でした。ユダヤ戦争でローマ帝国軍と同盟軍であったユダヤの王が立てこもるユダヤ人たちを虐殺し、この素晴らしい神殿は破壊されました。その時、「世の終わり」が来たのかというと、そうではありませんでした。
その後もこの神殿の再建はならず、今の姿です。この神殿の後には、黄金の屋根の岩のドームと呼ばれるイスラム教のモスクが建てられ、ユダヤ教でもキリスト教でもない、イスラム教の人たちの場所になりました。私も西暦2000年の9月にここに行きましたが、ちょうどその日にイスラム教とユダヤ教の小競り合いと投石騒ぎからしばらく紛争が続きました。
でも、まだ、いわゆる「世の終わり」は来ていません。今のパレスチナの戦争をみて、いよいよ世の終わりが来たという人もいるでしょう。そんな世の終わりが本当に来るかもしれませんが、それだけを心配して、聖書の暗号のような預言を読み解いて計算して、「いつ世の終わりが来る」と言い出すのは偽キリストともいえる、世を騒がす危険な宗教運動という事になるでしょう。
では、何をここから聞き取ることが必要でしょうか。それは、そこから始まる「産みの苦しみ」という事です。苦しくて、不安で、大変なことになっても、それは、「産みの苦しみだ」とキリストは言います。その苦しみを通して、その向こうに、うれしい新しいいのちが生まれる出来事があるのと同様のことがあるという事です。
それは、こういう事でしょう。私たちの人生にも、苦しみや不安、どうしようもないことが起こって、「もうこれでおしまいだ」とつぶやくときがあっても、それは、今までのものが崩れ去って、新しい自分が生まれ変わるチャンスなのだと。
私たちは、今まで、本当の神を知らずに生きてきました。自分の力や自信、または人の目やお金、権力などを頼りにして生きてきました。自信過剰で人を追いやり、自分の立場を誇示するのが世の人のすることです。しかし、やもめが生活費全てを賽銭箱に入れたように、自分が頼れるものが何もなくなった中で、神様だけに信頼する生き方になること。その財布の中身全部を賽銭箱に入れるという事は、ある意味、自分の頼ってきたものをすべて手放して、神様にすがる生き方になった瞬間でもあるのです。
その時、今まで何かにとりつかれていたように生きていた自分がいったん死んで、背負っていたすべての荷物を肩から降ろして、楽に自由にされたのです。その時が神様の出番。本当に謙虚で、愛のある生き方に変えられます。神を愛し、人を愛し、助け合い支え合う、聖書が一番大切と教える生き方です。
「豪華に作った神殿のきれいな石の建物が何になるんだ。それを誇るよりも、貧しくとも、自分の心に神様と神の愛を宿す、あなたこそが神の神殿なのだよ」、というキリストの言葉を聞き取りましょう。「天変地異が起こる世の終わり」をカウントダウンする事ではなくて、頼るべきものではないものに頼り誇ってきた生き方を終わらせて、本当の神に立ち返って、神を愛し人を愛する生き方が生まれる、そんな「終わりの日と、始まりの日」を見つめることが大切なのです。
4,勧め
人々は、建物や目に見えるものに心を奪われます。私は、「昔ソロモンが建てたというエルサレムの神殿を同じ大きさで再現したというキリスト教会」に行ってみたことがあります。ブラジルのサンパウロの熱狂的なグループの教会が建てて有名になったので、教会メンバーや他の牧師と一緒に夜の礼拝に行ってみました。人々は自信たっぷりで誇らしげに迎え、集まる人も圧倒されています。それもいいことかもしれませんが、私たちは、古い自分が終わって、新しい自分が生まれることに目を向けることが大切です。
エルサレムに残るといわれる、キリストの頃の城壁や石垣、石の階段、があります。しかし、そこに、多くの人が触ってみて祈る石の壁があります。それは、キリストが十字架を背負って歩かされるときに倒れて、手をついたと、伝説で言われる石の壁の一部分です。みんなが触って祈るので、そこだけ黒くなっています。私もそこに立ち、それを触りながら、祈らされました。罪深い自分のために、十字架を背負わされ、代わりに死んでくれた方を思い出して、間違いを悔い改めて、神の愛を知り、人を愛し、正しく生きていける、そんな人に少しずつ変えられる。そんなことを思い起こさせてくれる、黒くなった石の壁の一部分。私たちも、自分の心に手を当てて、悔い改めと、新しい自分の生き方をはじめましょう。
教会のカレンダーでは、来週の日曜日が一年で最後になります。一年の終わりの前に、心の大掃除も致しましょう。